Russian Indie Guide-ロシアのインディーロックガイド

ロシアのインディーロック、その知られざる素晴らしき世界

ソ連時代のニューウェイブ - 80年代「裏」ソ連ロック史

Alyans
Lenta.ru 『「私たちはとてもふわふわしていました」30 年後、全世界がソビエトのロマン派について知りました。アライアンスは突然の名声についてどう思いますか?』より

ロシアのロックの「正史」「総論」みたいなものは大体書いたと思うので、今後は「各論」のようなものを書いていきたいと思う。

ソ連時代の80年代にロック革命が起きた事は「ソ連時代のロック」の記事で書いたが、この記事で扱ったのは(ツォイが死亡したので解散したKinoを除いて)90年代以降もメインストリームで商業的に成功したバンド達である。これらのバンドはパンク/ニューウェイブ出身者が多いが、よりロシア国内で受け入れられやすいスタイルで演奏していた。こういったバンドは狭義で「ロシアンロック」と呼ばれる。当時の歴史的な事はこちらの記事で詳しく書いたので読んでほしい。

しかし海外のニューウェイブをそのまま移植したような、より尖ったバンド達も存在していた。日本で例えると、ロシアンロックのバンド達がBOØWY(ボウイ)やレベッカのような歌謡曲っぽいロックバンドだとしたら、こうした尖り系はインディーズのナゴムレコードやトランスレコードのバンドのような存在である。要するに売れ線ではなくもっとアンダーグラウンド志向、アート志向のバンドだ。ロシアンロックは「表ソ連ロック」で、「裏ソ連ロック」はよりアーティスティックな方向性のバンドだ。

個人的には正直ロシアンロックは泥臭くてあまり好きではない。さっき挙げた日本の売れたバンドが苦手なのと同じような感覚だ。ドメスティックな土着臭が強いからか。
このブログは現代ロシアの洗練されたインディーロックをメインに書いているが、その直属の先輩のような80年代の尖ったバンドをここで紹介したい。ほんとはこっちを早く書きたかったが、ソ連ロックを紹介するからには「表バンド」をすっ飛ばす訳にはいかない。ここでは「今のインディー耳で聴いても古さを感じさせないバンド」を基準に選んでいる。

この時代はシンセポップが非常に充実していたのが特徴である。2000年代末に「Sovietwave」と呼ばれるソ連時代へのノスタルジーを含んだエレクトロニックミュージックが登場したが、これらのアーティストはソ連のシンセポップから大いに影響を受けている。Sovietwaveについてはこちらの記事で書いているのでどうぞ。

80年代はイギリスのシンセポップが世界的な人気を博したので、ソ連のシンセポップは当然その影響を強く受けている。特にDepeche Modeの影響はとてつもないものだった。Duran DuranUltravox、JAPANのようなニューロマンティックのバンドの影響も絶大だった。

なお、ここに貼っているたくさんのドキュメンタリー動画は、すべてPCでは自動翻訳の日本語字幕が出るものを選んでいる。スマホでは英語しか出ないものもあるので都度使い分けてください。

先駆者

Zodiak(Зодиак)

Zodiakはソ連のシンセポップグループとしては海外でもかなりの知名度があり、日本語版Wikipediaにも項目があるほどだが、実はロシアではなくラトビアのグループである。下記のロシアのシーンとはあまり接点もなく「バンド」というタイプではないので別枠にした。ソ連のシンセポップを語るなら絶対外せない存在だ。
Zodiakはラトビア国立音楽院の学生だったヤニス・ルーセンス(Jānis Lōsēns)を中心に1970年代後半に結成された。Tangerine DreamやVangelis、Mike Oldfieldといった映画音楽のアーティストの影響を受けた彼らは、宇宙やSFをテーマにした壮大なシンセサイザーミュージックで知られる。
1980年のデビュー作「Disco Alliance」は国営レーベルメロディヤからリリースされ、1983年8月までにソ連で580万枚以上売れた。Zodiakは国営ラジオでプッシュされたため海外でも知られ、ルーセンスによると全世界で2000万枚以上売れたらしい(が、多分印税はもらってないはず)。このようにスムーズに行ったのは彼らが検閲に引っかからないインストゥルメンタルグループだからだろう。彼らの曲はソ連の映画やテレビ番組で頻繁に使用された。
当時は「スペースディスコ」というジャンルがヨーロッパで流行っていて、彼らはその波に乗った。1stと2ndの「Music in the Universe」は海外でもリリースされた。日本盤も出たらしく、「ソ連YMO」と当時呼ばれたらしい。
ソ連崩壊後は活動を停止していたが、2000年代半ばから再開、2014年には新作も出している。

Zodiakは上記の2000年代以降のSovietwaveに強い影響を与えており、ソ連時代のスペースエイジへの郷愁の源泉となっている。Sovietwaveの記事で紹介したPPKはZodiakの曲をリミックスした「Reload」をヨーロッパのチャート上位に送り込んでいる。
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モスクワ・シーン

ここからはロシアのバンドを紹介するが、尖り系NWバンドはほぼモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)に限られ、メンバーの流れも分かりやすいのでそれぞれまとめて記載する。しかしシベリアン・パンクシーンの影響下にある見逃せないバンドもいるのでシベリアのシーンも採り上げる。

また、ソ連のバンドの事をWikipediaで調べていると「ソビエト・ロックの100枚の磁気アルバム(正式タイトルは「ソビエト ロックの魅力的なアルバム 100 枚。1977年から1991年:15年間のアンダーグラウンドレコーディング」)」という言葉がよく出てくる。これは音楽ジャーナリストのアレクサンドル・クシュニルによる1999年の本で、ソ連時代のロック百科事典である。「磁気アルバム」というのは要するにレコードではなく自主制作のカセットテープのアルバムの事で、国営レーベルのメロディヤからのレコードリリースが出来なかった、地下で流通していた音源の事である。こうした音源はソ連崩壊後にCDやレコードで再発され、やっと全国的に聴かれるようになった。ここで紹介するバンドはこうしたタイプが多く、ソ連時代はモスクワやレニングラードの都会でしか知られていなかったが、後年再評価、というパターンである。この記事で特に「メロディヤからリリース」と書いていないものは全部カセットテープのリリースである。
この本で100枚に選ばれているアルバムは名作のお墨付きなので参考になるだろう。
↓これはロシア語版Wikipediaの項目で、100枚のリストも載っている。

100 магнитоальбомов советского рока — Википедия

Tsentr(Центр)

Tsentr(Center、中心の意味)は1970年代後半に結成された「777」が後に改名したバンド。中心メンバーのヴァシリー・シュモフ(Василий Шумов)が現在に至るまで唯一のオリジナルメンバーで、ロシアのニューウェイブの最古のバンドの一つである。シュモフ以外のメンバーは数多く在籍したが、後に別バンドを結成して有名になった人も多い(Va-Bankを結成したアレクサンドル・スクリヤル等)。名前通りモスクワ・アンダーグラウンドの「センター」のバンドだった。
彼らの音はポストパンクからガレージパンク、シンセポップと幅広いが、アヴァンギャルドな傾向が強いので「めちゃくちゃ売れて大ブレイク」とはなりえなかった。ロシアのシンセポップ文脈では必ず触れられるバンドだが、いかにもなシンセポップを期待して聴くと肩透かしを食らう。評価の高いアルバム(上記の「磁気アルバム100枚」にも選ばれている83年の「Стюардесса летних линий」と84年の「Чтение в транспорте」)はシンセポップではなかったりする。ロシアのアンダーグラウンド音楽をたどっていくと必ず行きつくバンドである。

非常に多作なバンドであるが、他のソ連の地下バンドと同じく80年代前半の作品はレコードではなく自主制作のカセットテープだったので、後に伝説的ロックジャーナリストのアルテミー・トロイツキーのレーベルから再発されている。1989年の14枚目のアルバム「Сделано в Париже(Made in Paris)」はパリで録音されメロディヤからリリースという贅沢さで、彼らの名前が地上でも知られた(これは過去作品を良い環境で再録するというセルフカバー作品)。

しかしバンドの活動は1989年夏には縮小される。シュモフは「ソ連時代のロック」の記事で書いた、初めてソ連のバンドをアメリカに紹介したアメリカ人女性ジョアンナ・スティングレイの妹のジュディと90年に結婚して、アメリカに移住(ちなみにジョアンナはTsentrのドラムのアレクサンダー・ヴァシリエフと2回目の結婚をしている。1回目はKinoのギタリストのユーリ・カスパリアンだが、離婚したのでモスクワに移ったのだろう)。シュモフはロサンジェルスに住み修士号を取得、マルチメディア、デザイン、コンピューター技術を教え、短編映画を制作した。90年代後半からTsentrの活動を再開し、過去作品も再発。2009年に離婚でロシアに戻り、以後モスクワで音楽活動を続けている。

↑これは2009年の動画なので、ロシアに戻った直後か。なおチャンネル名の「Centromania」とはTsentrの熱狂的なファンの名称らしい。

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Nochnoy Prospekt(Ночной проспект)

Nochnoy Prospekt(=Night Avenue、夜の大通りの意味)は上記のTsentrのメンバーだったアレクセイ・ボリソフ(Алексей Борисов)とイワン・ソコロフスキー(Иван Соколовский)が1985年に結成したバンドで、ロシア最初のインダストリアルバンドの一つである。80年代のソ連で最も実験的なバンドでもあったので当然一般受けはせず、ソ連時代はレコードは出せなかった。しかしカセットテープで出した1988年のアルバム「Кислоты(Acids)」は極めて評価が高い(「磁気アルバム100枚」に選出)。アルバム自体はたくさん出していて、90年代以降再発されている。
彼らの音はインダストリアルから実験音楽、そしてシンセポップやダンスミュージックとジャンルも幅広い。全編に漂うのは前衛精神で、一見分かりやすいメロディかと思うような曲でも全然そうじゃない、というような音である。強いて言えばSwansとSPKをミックスしたような感じか?特に「Кислоты(Acids)」を初めて聴いてみた時、「遂にロシアのインダストリアルノイズを見付けた!」と感激した。

この手のバンドによくあるように、彼らも非常に多作だ。ソ連時代の作品でも英語で歌っている曲もある。ゲストヴォーカルによる曲も多い。
2005年にイワン・ソコロフスキーは脳卒中で亡くなったが、グループは現在も活動を続けている。2019年のBol Festivalにも出演している。(Bolについてはこちらで書いたのでどうぞ)Bolは新世代のバンドを紹介するフェスだが、彼らのようなソ連時代の個性派ベテランも出るのが一つの目玉であった。
またアレクセイ・ボリソフは数多くのミュージシャンとコラボしていて、KK NullやGovernment Alphaといった日本のノイズミュージシャンとも共演している。

↑これは2018年のロシアでのボリソフとKK Nullのライブ。ボリソフとKK Nullのコラボ作品も発見!(めっちゃかっこいい!)「Xenoglossia」という2003年のアルバムからの曲のようなので、かなり長い間交流が続いているものと思われる。Government Alphaとのコラボ動画は発見できず。昔確かGovernment Alphaのライブは高円寺辺りで見た事あったはず...いや、渋谷の「電子雑音」(RIP)のイベントだったか?

↑これはNochnoy prospektのドキュメンタリー動画で、この記事の最後にある映画「ソビエトニューウェイブの英雄たち」の撮影で一緒に作ったものだろう。設定で日本語字幕も出る。
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Alyans(Альянс)

Alyans(=Alliance、同盟の意味)は数奇な運命を辿ったバンドである。1987年の大ヒット曲「На заре(Na Zare=At Dawn、「夜明けに」の意味)」のビデオクリップ↑が31年後の2018年に公開されると、驚異的な再生数でバイラル人気となった。これをきっかけにすっかり忘れられていたソ連時代のロマンティックなバンドは再び注目を集める事となった。

Alyansは1981年にZodiakでの演奏経験もあるセルゲイ・ヴォロディン(Сергей Володин )の呼びかけで結成。現在もメンバーであるヴォーカル/ギターのイゴール・ジュラヴレフ(Игорь Журавлёв)とベースのアンドレイ・トゥマノフ(Андрей Туманов)もオリジナルメンバーである。当初はスカやレゲエを演奏していた。彼らはこの記事の中では比較的ちゃんとレコードを出せているバンドである。途中で何度か活動を休止・再開しているが、1984年秋になぜか当局のブラックリストに載せられ、活動できなくなった。特に反体制的な歌詞だった訳でもないので、これはメンバーも理由が分からなかったらしい(この記事のトップの写真の引用元の記事にある)。

1986年秋、バンドは復活。モスクワ・ロック・ラボラトリーのメンバーになる。ジュラヴレフ、トゥマノフに加えてキーボードにオレグ・パラスタエフ(Олег Парастаев)とコンスタンチン・ガブリロフ(Константин Гаврилов)も参加。パラスタエフのおかげでバンドはまともな楽器を揃えるようになった。彼が作曲した1987年の「На заре」が大ヒットし、一躍人気バンドとなる。この時期のニューロマンティック的なシンセポップが彼らの一番強いイメージだろう。上のビデオクリップにはジュラヴレフとパラスタエフしか映っていないが、これは他のメンバーが撮影日に来られなかったり遅刻したせいである。

↑これは『テレビ会議 モスクワ - レニングラード「Rock and Around It」 (1987)』というテレビ番組出演時のものである。こんな風にテレビにも出られるようになった。ソ連の観覧客のいるテレビ番組風景は非常に興味深い。
私がソ連の音楽を掘り始めた2020年のコロナ禍開始時、YouTubeでこのビデオを見付けて度肝を抜かれた(バイラル人気後だったのでソ連・ロシアものを見るとすぐ関連に出てきた)。空気階段の鈴木もぐらみたいな人(オレグ・パラスタエフ)と、歌ってない時は人形みたいになるやたら掘りの深い人(イゴール・ジュラヴレフ)、彼の幅広いオクターブの歌声、頭の中でグルグルしっぱなしの「♪ナ~ザレェ~~~♪」というサビ部分と、「なんだこれは?!!!」とものすごいインパクトであった。「ソ連ポップ」という未知の世界への入り口だった。

「На заре」の大ヒットで彼らは大きなロックフェスに出たりベルリンでUriah Heepと共演したりとビッグステージに立ったが、よりロック的な方向性に変えたいジュラヴレフとニューウェイブで行きたいパラスタエフが対立し、1988年9月にパラスタエフが脱退。パラスタエフは自身のプロジェクトНовая русская группа(New Russian Group)を始める。
Alyansは新メンバーを迎えてロックバンドへの変身を完了、90年にはアリーナでの演奏も経験する(この頃は後期Duran Duranのような演奏)。しかしコペンハーゲン公演でジュラヴレフは世界には数多くのニューウェイブバンドがいる事に気付き(要するに井の中の蛙だった事に気付いた、って事でしょうか?)、新たな方向性を模索。女性シンガーのインナ・ジェランナヤを迎え、ロシアンフォーク寄りの「Сделано в белом(Made in White)」をリリース。しかしソ連崩壊後はメンバーがバラバラになり、バンドは消滅状態だった。
1993年のフランスのコンペティションで、「Сделано в белом」はワールドミュージックのヨーロッパのベストアルバムに選ばれた。その時点ではもうAlyansは存在していなかったが、ヨーロッパ各地での休暇旅行も兼ねて一時的に再結成した。このアルバムは90年にリリースされたという事を考えるとかなり早い時点でロシアンフォークを取り入れている作品であり(今はこういう「ペイガン」な音を取り入れてるバンドが腐る程いるし)、非常に完成度が高い。「На заре」のイメージとは全然違うが一聴の価値あり。今聴いても古さを感じない。

90年代はロシア激動の時代であり、商業的な音楽シーンについていけないバンドは活動休止状態になるケースが多かった(これはこの記事の最後の映画「ソビエトニューウェイブの英雄たち」でAlyansのメンバーも語っているが、大変な思いをしたようだ)。Alyansのメンバーはインナ・ジェランナヤを中心としたフォークバンドFarlandersを結成。イーゴリ・ジュラヴレフも2000年に参加している。

2008年にイーゴリ・ジュラヴレフとアンドレイ・トゥマノフはまたAlyansとして活動し始めた。
2018年にオレグ・パラスタエフが自身のYouTubeチャンネルを開設。そして2019年4月に「На заре」のビデオクリップを公開するとバイラル人気を得て、一躍注目を集めた(一日で50万回も再生されたため不正行為が行われたと思われ、一時YouTubeからブロックされたが後に無事復旧)。同月Alyansは25年振りの新作「Хочу летать!(I Want to Fly!)」をリリース。全曲パラスタエフが作曲し、ジュラヴレフがプロデュースした。Alyansはフェス出演したり(2018年のBol Festivalにも出た)テレビに出たりしたが、パラスタエフは参加しなかった(ジュラヴレフによると健康上の理由だったらしい)。2020年6月、パラスタエフは61歳で死去。Alyansは現在も活発に活動中。

「На заре」は様々なアーティストによってカバーされている。YouTubeで検索するとたくさん出てくる。「ウクライナ侵攻に対するロシアのミュージシャンの姿勢それぞれ(1)賛成派」の記事で書いたプーチン支持派のBastaやShamanがカバーしているのはなんだかモヤモヤするが、それはこの曲がソ連への郷愁を象徴するからだろう。それだけ曲の力が強いという事だ。またAlyansは上で書いたSovietwaveの創造の源となっている。
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Biokonstruktor(Биоконструктор)

Biokonstruktorは元Ответный чай(Otvetny Chay=Reply Tea、パンクバンドだったらしい)のメンバーだったアレクサンドル・ヤコブレフ(Александром Яковлевым)とアンドレイ・コハエフ(Андреем Кохаевым)によって1986年に結成されたシンセポップバンドである。レオニード・ヴェリチコフスキー(Леонид Величковский)とヴァレリー・ヴァスコ(Валерий Васько)も加わり4人組となる。バンド形態もヴォーカルとシンセにドラムパッド、というのが当時の見た目的にもクールなものだったろう。
Depeche Modeの影響を強く受けた、ダークで本格的なシンセポップサウンドはこれ以前のバンドに比べてかなり洗練されている。1987年のデビューアルバム「Танцы По Видео(Dancing by Video)」はソ連シンセポップの金字塔的アルバムである。Depeche Modeっぽさが随所にあるのは仕方がない。それだけ彼らの存在は大きかった。本物のDMは遠い存在で、ソ連のDMを作ってファンもそれを楽しもう、というのは十分理解できる。日本のSOFT BALLETみたいなものだろう。

↑アレクサンドル・ヤコブレフはAlyansのファンだったようで、Alyansの項で貼ったテレビ番組の「На заре」のクリップの観覧席にいる(3:20以降に何度か抜かれている)。ソ連時代はロッククラブでもきちんと着席して大人しくライブを見なければいけなかったらしいが、控えめな観客の中で一際盛り上がっているヤコブレフ。

1989年にヴァレリー・ヴァスコが脱退し、ロマン・リャブツェフ(Роман Рябцев)が加入。同年メロディヤから初めてレコードがリリースされた。
しかしバンド内で方向性の違いが顕著になり、90年にBiokonstruktorは解散する。ヤコブレフ以外のメンバーはTekhnologiya(Технология)を結成。ヤコブレフはBio(Био)として活動する。Human LeagueからHeaven 17が分裂したようなものですね。
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Tekhnologiya(Технология)

90年にBiokonstruktorが解散し、アレクサンドル・ヤコブレフ以外のメンバーのレオニード・ヴェリチコフスキーとアンドレイ・コハエフ、ロマン・リャブツェフは同年にTekhnologiya(=Technology)を結成する。Biokonstruktorのテック担当だったウラジミール・ネチタイロ(Владимир Нечитайло)がヴォーカリストとして招かれた。
もう↑この「Нажми на кнопку(Press the Button)」のビデオを見ればなぜBiokonstruktorが分裂したのかよく分かる。BiokonstruktorにはDepeche Mode的な要素が多分に含まれてはいるが、アレクサンドル・ヤコブレフのオリジナルな要素も十分にあり、ちゃんと個性を確立していた。しかし、他のメンバーはDepeche Modeそのものになりたかったのだ。ヴォーカルも声がDave Gahanっぽいから加入させたのだろう。

1991年にデビューアルバム「Всё, что ты хочешь(Everything You Want)」をリリース。Kinoのプロデューサーとして名声を得ていたユーリ・アイゼンシュピスとコラボし始める。90年にヴィクトル・ツォイが死去しKinoが解散したため、80年代のロックムーブメントは沈静化していた。そこに出てきたポップかつ全面的なシンセサウンドのTekhnologiyaは聴衆に新鮮に映り、スタジアム級の会場で演奏できる程の人気を得た。1993年に2nd「Рано или поздно(Sooner or Later)」をリリースするが、ロマン・リャブツェフがソロアルバムのレコーディングのためフランスに渡り、脱退を表明した。
ソ連崩壊後の90年代はロシアでもヴォーカルのないテクノが人気を博し始め、彼らのような歌心のあるエレクトロニックグループは古臭く感じられ始めたのだろう。97年にTekhnologiyaは解散する。
しかし2003年にロマン・リャブツェフとウラジミール・ネチタイロで再結成。その後リャブツェフはまた脱退したり戻ってきたりしているが、ウラジミール・ネチタイロが全キャリアを通じて在籍し、現在も活動している。

TekhnologiyaはとにかくDepeche Modeになりきっているようなバンドで、音のみならずミュージックビデオもDMそっくりである。

↑これは上の「Нажми на кнопку(Press the Button)」のビデオのワンシーンであるが、4人の並び方はDepeche Modeの名曲「Enjoy the Silence」の印象的なショットにそっくりである。曲を「もしDepeche Modeがロシア語で曲を作ったら」というマキタスポーツみたいなやり方で作っているので、私自身もうっかり「Press the Button」という曲がDMにあったような気がしてきた(笑)。

↑この「Холодный след(Cold Trail)」が一番DMっぽいだろうか。「Construction Time Again」や「Some Great Reward」辺りの中期DMを代表する金属的な効果音と、「Music for the Masses」や「Violator」の頃のアントン・コービンが監督している一連のビデオクリップのスタイルをガッツリパクっている。特徴的なコービンのざらついた白黒映像や、中期DMがよく使っていたハンマーを打ち付けるシーン、レザージャケット、Dave Gahanのようなクルクル回るダンスとDepeche Mode総集編のようである。私個人もDMの大ファンなのでいろいろと気付いてしまうが比べると面白い。他の彼らのビデオもDMそっくりさんなので見てみて。↓お手本

身も蓋もなくDepeche Modeになりきっている彼らだが、曲自体はとても良いしこれはこれで十分アリだと思う。ちょっとモサモサした声質のBiokonstruktorよりもとっつきやすいし。彼らのアルバムは結構愛聴している。日本には石野卓球を始めシンセポップマニアがかなりいるのに、DMヲタの卓球氏がこのバンドに食いつかないのが不思議でならない。突っ込みどころ満載なのに!
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Bio(Био)

さて、Biokonstruktorから一人だけ残されたアレクサンドル・ヤコブレフは元Zelenograd(Зеленограда)のオレグ・ポドコヴェロフ(Олега Подковерова)と、その友人で後にヤコブレフの妻になるオルガ・ヴォスコニャン(Ольгу Восконьян)とBio(Био)90年に結成。同年に1stアルバム「Техноромантики(テクノロマンティクス)」をリリース。こっちもこっちでDMの「Enjoy the Silence」そっくりの曲「Двое И Город」↑があるし、オレグ・ポドコヴェロフはMartin Goreに外見を似せてるし、まぁみんなDepeche Modeが心底好きなんだろう。このバンドは現在も活動している。

なおアレクサンドル・ヤコブレフは「Техноромантики(テクノロマンティクス、この言葉がめちゃめちゃ好きらしい)」という番組のホストをしていたらしく(多分90年代初頭と思われる。ラジオなのかテレビなのかは不明)、海外のシンセポップやニューウェイブを紹介していたらしい。この番組を毎週楽しみにしていた、というコメントをネットでよく見る。ロシアでは他にもNAIVのアレクサンドル・イワノフやAquqriumのボリス・グレベンシコフなどミュージシャンが海外音楽を紹介するラジオ番組が多い。これは日本でも坂本龍一布袋寅泰電気グルーヴなどミュージシャンがラジオで海外の最新曲をかけてファンを「教育」する文化に近いものだろう。アメリカやイギリスではあまりこういう事は聞かないような気がするが、非英語圏の「ロック後進国」ならではか。

2019年、アレクサンドル・ヤコブレフはTekhnologiyaを90年代に脱退していたアンドレイ・コハエフとBiokonstruktorを再結成する。ヴァレリー・ヴァスコも加わり、オリジナルメンバーのうち3人が集結。定期的に各地でライブ活動をしている。

また「テクノロマンティクス / ソ連初のテクノポップ グループの歴史 - バイオコンストラクター (Техноромантики / История первой техно-поп группы в СССР - Биоконструктор)」というドキュメンタリー映画が作られ、Biokonstruktor、Tekhnologiya、Bioのメンバーが当時の事を語っている。2022年にYouTubeでも公開された。↓字幕設定で自動翻訳の日本語字幕も出ます。

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Nikolay Kopernik(Николай Коперник)

Nikolay Kopernik(「地動説」を唱えたニコラウス・コペルニクスの事)は1981年に結成されたニューウェイブ/アートロックのバンドである。ここまでに上で書いてきたバンドは80年代のニューウェイブとしては比較的よく知られているようだが、Nikolay Kopernikは知っていると「おおっ!」と思われるような通向けのバンドらしい。音を聴いてみるとこの時代のソ連にこんな音があったとは!と思わせるような非常に個性的でクオリティの高い音楽をやっていたので是非紹介したい。

彼らはユーリ・オルロフ(Юрий Орлов)を中心に結成され、1986年のデビュー作「Родина(祖国)」は「100枚の磁気アルバム」にも選ばれている名作である。2005年に正式に再発されているので近年になって再評価されているのだろう。プログレッシブロックやファンク、アヴァンギャルドジャズの要素も含むプロフェッショナルで独創性溢れた作品で、有名な「ロシアンロック」「ソ連ロック」に「なんかダサい」と感じる人(すいません私もです)は是非聴いてみてほしい。1曲目の「Люди мира」のボコボコ言ってるベース(オレグ・アンドレーエフ Олег Андреев によるフレットレスベース)とか、今まで結構いろいろ聴いてきたと自負する私でもこんなの初めて聴いた。ニューウェイブ的な曲でのオルロフのエコーをふんだんにかけたヴォーカルは夢の中にいるような感覚を呼び、イギリスの4ADから出ている作品だと言われても疑わない。オルロフが弾く透明感のあるギターはガラスの指ぬきを使って演奏されているらしい。このアルバムはスタッフの自宅アパートで4チャンネルのソニーポートスタジオで録音され(当時のアンダーグラウンドバンドはほとんどこんな感じ)、ドラムはドラムマシンである。サックスが入っているのも特徴的である。
彼らのアルバムはサブスクにはあまりないようで(Spotifyにはなし、Apple Musicではアルバムとしては日本では聴けない設定だが「トップソング」の所でこのアルバムの曲は聴ける)、YouTubeにフルアルバムがあったので是非どうぞ。アーティスティックで素晴らしい作品です。1988年の「Голова в пространстве」、1989年の「Ослеплённый от солнца 」もYouTubeにあった。

彼らは93年に消滅するまでに9枚のアルバムを出したが、2005年に活動再開。2011年に新作「Огненный лёд(Fire Ice)」も出している。オフィシャルサイトもあるが2012年以降更新されていないようなので現在の活動は分からない。他のアルバムもYouTubeを丁寧に探していけば見つかるかも知れない。なおオルロフは90年代はソロ活動と並行して映画音楽を手掛けていたようだ。

↑これは活動再開後のライブ。2008年にアップされているがいつの演奏かは不明。洒落たコード進行のスタイリッシュな曲である。オルロフは独特の佇まいの人で、ロマンティックなダンディーという雰囲気。

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Obermaneken(Оберманекен)

Obermanekenは1980年結成のニューウェイブ/ポストパンクバンドである。基本的にはエフゲニー・カラチョフ(Евгений Калачёв )とアンジェイ・ザハリシチョフ・フォン・ブラウシュ(Анжей Захарищев фон Брауш)のデュオである。彼らはWikipediaによると「ボヘミアンなエロティシズム、洗練されたデカダンス、奇妙な詩的なイメージとともに、新ロマン主義ポストモダニズムの美学をロシアのロックに導入した最初のソ連のグループとみなされている」らしい。
上のYouTube動画の1987年のアルバム「Прикосновение нервного меха(神経質な毛皮の感触)」は「磁気アルバム100枚」にも選ばれているが、アルバムタイトルはマゾッホ(「マゾヒズム」の語源となった人)の「毛皮を着たヴィーナス」を思わせるし(Velvet Underground経由かも知れないが)、ソ連共産党イデオロギーとはかけ離れていそうだ。

↑これはいつ頃の映像か分からないが、ソ連末期頃か?美麗なギターのコードにスポークンワードのようなつぶやきを被せていたと思ったら、突然激しいギターになってノイジーなロックに変わる。いきなりSonic Youthに変身というか。この展開、めっちゃかっこいいです。

Nikolay Kopernikのメンバーがよく関わっていたようで、確かにちょっとドリーミーな所は被るかも知れない。彼らの音源もサブスクにはあまりないようなのでYouTubeが頼りだ。2000年代初頭にエフゲニー・カラチョフが脱退するも(コンサート・ピアニストとしてのキャリアを選んだらしい)、アンジェイ・ザハリシチョフ・フォン・ブラウシュのソロプロジェクトとして現在も活動しているようだ。

YouTubeにあるフルアルバムだと、1998年の「Нега и роскошь」、2000年の「Магнетизм」、2014年の「Серпантин. Венеция」が見つかった。

↑これは「ソ連生まれ」という番組で、投稿は2015年。多分2010年代前半にロシアで放送された番組だろう。ソ連時代のアーティストを呼んでスタジオライブをする番組だと思われる。

彼のInstagramを見るとかなり頻繁に投稿している模様。ブライアン・フェリーのような見た目だが、思った通り彼の写真を投稿していた(笑)。この年代のニューウェイブ系ロシア人は絶対憧れてるはずだと。
彼の誕生日イベントの告知文には「イマジン カフェのあらゆるセンチメートルは、金色の輝き、サイケデリックなダイヤモンドの輝きで照らされ、錬金術線香花火の最も明るい火花によって暖められます。」とあるが、いつも詩的な事ばかり書いてる人のようだ。なんとなく日本の同時代に同じような事をやっていたマダム・エドワルダのZINさんを思い浮かべた(どのくらいの人に通じるか分からないが)。「アンジェイ・ザハリシチョフ・フォン・ブラウシュ」というロシア人なのに「フォン」が付いてる名前は(いや、ほんとにドイツ貴族の血筋なのかもしれないけど)、ZINさんのフルネーム「Zin-François Angélique」に似た匂いを感じる。永遠のデカダンなロマンティストだ。

なお2021年にカラチョフとザハリシチョフ・フォン・ブラウシュの共著の小説「箱の中の塊、あるいは記憶のハーレム」の電子書籍が発行されたらしい(書かれたのはもっと前らしい)。

NII Kosmetiki(НИИ Косметики)

NII Kosmetiki(「化粧品研究所」の意味。架空の研究所にちなんだ)はDr.メトディウス(Доктор Мефодий )を中心に1985年に結成されたニューウェイブバンドである。彼はモスクワ地方の村の議員を数期務めていたらしい。
彼らの曲はApple MusicでもSpotifyでも↑の「Оборотень Лис(狼男フォックス)」1曲しかないのでYouTubeにある曲から判断するしかないが、メンバーが9人とかやたら多くて「ショー」担当というメンバーがいることから、エロティックなパフォーマンスアートを組み合わせたようなものなのではないかと推測する。80年代のライブ動画は見付からない。音は「ストレンジポップ」という感じか。歌詞もシュールな感じ。セックスが彼らのテーマであったようだ。Alyansがロシアンフォーク化した時に加入したインナ・ジェランヤナがキーボード奏者として一時参加していた事もある。
彼らは政府のブラックリストに載っていた事もあり(性的な歌詞のせいだろう)、87年頃まではどのフェスティバルにも出演する事が出来なかったので自らフェスを主宰していた。しかしペレストロイカの雪解けで晴れて合法バンドとなり、地上で演奏できるようになった。映画や演劇絡みの活動もいくつかあった。89年にソ連各地をツアーした後、メンバーの方向性の違いにより崩壊。1991年にDr.メトディウスはオランダに渡り、以後ヨーロッパ各地に活動の場所を移しながらソロプロジェクトとしてNII Kosmetikiを続けた。

YouTubeにあるフルアルバムは1987年の「История Болезни」と「Военно-половой роман 」が見つかった。

2018年、Bol Festivalの主催者ステパン・カザリアンがDr.メトディウスに連絡を取り、2019年のBolにNII Kosmetikiが出演する事となった。この時代を先取りしていたソ連の伝説的なカルトバンドの復活は大きな話題となった。Dr.メトディウスはイタリアからはるばるやって来たが、前日に風邪で熱を出して大変だったらしい。

NII Kosmetikiの名前はソ連時代でもそれ程知られておらず、90年代以降でも音楽マニア(例:ステパン・カザリアン)くらいにしか知られていなかったが、アメリカのAriel Pinkが2010年にFACT Magazineで発表したミックスのトップにNII Kosmetikiの曲があったのでちょっと話題になったらしい。2021年のドナルド・トランプ支持者による連邦議会襲撃事件に参加していたという不名誉な事で一般的にも知られてしまった彼だが、ポップオタクで知られるのでNII Kosmetikiも聴いていたのだろう。彼自身はどこで知ったのかは分からないらしい。ちなみにMGMTも2018年の「Little Dark Age」はソ連のシンセポップからインスピレーションを得たと語っている(Newsweek)。

イギリスの有名な音楽ジャーナリストJohn Robbが主催する「Louder Than War」(LTWはロシアの音楽をわりと採り上げている)にNII Kosmetikiの記事があるので是非どうぞ。↓ 1985年にソ連アメリカの国民が衛星中継で初めて繋がり、会談をした。ソ連が先進国であるという事をアピールするのが目的の会談だったが、レニングラードの女性が「ソ連ではセックスはない」「しかし愛はある」と発言したため、この部分が西側で今で言う「切り取り報道」を盛んにされた。これによって西側でソ連に対するいびつなイメージが固定された。
この共産党による「押し付けられた無性愛」に挑戦するために生まれたのがNII Kosmetikiだったらしい。半裸のダンサーや性的な部分を強調した衣装など、当時のソ連国民にとってはショッキングなパフォーマンスをしたらしい。このバンドの背景が詳しく解説されている良記事です。

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DK(ДК)

DKは1980年にセルゲイ・ザリコフ(Сергей Жариков)を中心に結成されたバンドである。彼らはニューウェイブバンドというよりアヴァンギャルドなパンクバンドのような存在で、「ロシア前衛音楽の祖」と目されている。↑の「Ветер перемен(Wind of Change)」の入った1988年のアルバム「Непреступная забывчивость(頑固な物忘れ)」はニューウェイブ的な音であるし、この記事のテーマはメインストリームのソ連バンドじゃなくて前衛寄りのバンドを紹介する、というものなのでモスクワシーンのトリを飾ってもらおう。
セルゲイ・ザリコフ以外のメンバーは流動的でほとんどセッション的な参加だったようだが、Nikolay KopernikのメンバーやVa-Bankのアレクサンドル・スクリヤル、セルゲイ・レトフ(イゴール・レトフの兄でサックス奏者。彼もGrazhdanskaya Oboronaのメンバー)など数多く参加している。80年代前半には彼らは地下のアーティスティックなシーンで名声を博していた。当時地下で急速に流通していたZINE(ファンジン)や音楽コレクターによって、彼らはカウンターカルチャーのヒーローとなっていた。1984年にザリコフは「ソ連に対する中傷的捏造」で刑事告訴され、KGBの監視下に置かれた。
とは言えアヴァンギャルドシーンで地位を確立し、膨大な数のアルバムを発表した。

「Непреступная забывчивость」は「磁気アルバム100枚」に選ばれているが、これは他のDKのアルバムとは違ってモスクワではなくレニングラードで録音されている。次のレニングラードシーンで述べるアレクセイ・ヴィシュナのスタジオで録音されており、ザリコフとヴィシュナの二人で製作した。このアルバムに含まれている「ガザ地区(Сектор Газа)」という曲は、後の同名のパンクバンドの名前の元になっている(Sector Gazaについてはこちらの記事で)。このようにDKはロシアの音楽のみならず文化全般に大きな影響を与えている。

↑これはいつの曲かちょっと分からないが、ジャケはブレジネフ書記長だよね?ブレジネフ政権の時にこれを出したんだったら超過激。音は上のアレクセイ・ヴィシュニャの時とは全然違ってボヘミアンな感じのブルースロックか。

DKは1990年に活動を休止するが、2001年に結成20周年を記念して一時的に再結成した。なおセルゲイ・ザリコフは本業は編集者や作家であり、こちらの方面でも成功している。現在は思想家・政治評論家として有名なようで、YouTubeチャンネルも持っている。

DKのアルバムはサブスクにはあまりなく、Apple Musicで辛うじて見つかった。これも「トップソング」の所で聴ける。
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レニングラード・シーン

レニングラード(現サンクトペテルブルク)はフィンランドに近く、西側のものが手に入りやすかったためソ連の流行最先端の街であり、音楽的にも常にトレンドを牽引してきた。ロック革命もここから始まった。ここでは「表ロック革命」のKinoやAquarium、Alisaではなく、「裏ロック革命」のバンドを紹介したい。

Aleksey Vishnya(Алексей Вишня)

レニングラードのバンドの裏によくいるのが、Kinoのレコーディングエンジニアとしての仕事で有名なアレクセイ・ヴィシュニャ(通称チェリー)である。なのでまず彼を紹介したい。彼自身もミュージシャンであり、1984年から現在までコンスタントにソロアルバムをリリースしている。男性としては高い声のカウンターテナーがトレードマークであり、後述のKofeのドキュメンタリー映画での最近の姿を見るとほとんどおばさんなので、多分トランスジェンダーの人なのではないかと推測する。
上記のモスクワのDKの「Непреступная забывчивость」のレコーディングはヴィシュニャのスタジオでレコーディングされており、彼も演奏や歌で参加していてニューウェイブ的な音になっている。

ヴィシュニャがレコーディングで関わったバンドはKinoやKofe(彼が最初にプロデュースしたバンド)の他に、後述のKofeの後継バンドのPetlya Nesterova、AVIA、そして「ロシアンパンクの歴史」の記事で書いたAvtomaticheskiye Udovletvoriteliのアンドレイ・パノフやObyekt Nasmeshekなどと80年代レニングラードシーンを支えている。90年代以降は他のバンドのプロデュースはあまりやっていないようで、ソロ活動に専念しているようだ。

なおKinoのヴィクトル・ツォイにはアレクサンドルという息子がいるが、ヴィシュニャはアレクサンドルの父親はツォイではなくObyekt Nasmeshekのリコシェことアレクサンドル・アクショノフ(ツォイの未亡人のマリアンナと事実婚)だと主張しているらしい。この辺レニングラードシーンを知り尽くしている人ならではだが、子供にそんな事言ってやるなよ(笑)。アレクサンドルはグラフィックデザイナー兼ミュージシャンで、再結成イベントでKinoのメンバーとして演奏したらしい。
またヴィシュニャはツォイの父親が近年ガンを患い治療費に困っていたので、Kinoの印税がちゃんと彼に行くように裁判をして骨を折ってあげたらしい。
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Strannyye Igry(Странные игры)

Strannyye Igry(=Strange Game)は1982年に登場したスカ/レゲエ/ニューウェイブバンドである。当時のイギリスではThe SpecialsやThe Madnessといった「2トーン」と呼ばれるスカパンクバンドブームがあったので、それをもろに受けた音である。こうしていろいろ見てきてみると、本当に当時のソ連はイギリスの音楽から直に影響を受けていたんだなと感じる。アメリカのRamonesTalking HeadsBlondieDevoなどからも影響は受けているが、ファッション的にもイギリスのロックがかっこよかったのだろう。「鉄のカーテン」なんか若者には全然ないなと思う。

1979年にVo/Gのアレクサンドル・ダヴィドフ(Александр Давыдов)とヴィクトル・ソログブ(Виктор Сологуб、当初Vo/G、後にベース)が出会って作ったバンドが基になっており、後にヴィクトルの弟のギターのグリゴリー・ソログブ(Григорий Сологуб)、サックスのアレクセイ・ラホフ(Алексей Рахов)、キーボードのニコライ・グセフ(Николай Гусев)とニコライ・クリコフスキフ(Николай Куликовских)が加入。'81年に「アレクサンドル・ダヴィドフ・グループ」という名前でレニングラード・ロッククラブに参加してライブデビューする。翌’82年にバンド名をStrannyye Igryと変える。ドラマーはなかなか定着しなかったが、元Piknik、Aquariumという輝かしい経歴のアレクサンドル・コンドラスキン(Александр Кондрашкин)で落ち着く。
1983年にデビューアルバム「Метаморфозы(Metamorphoses)」をリリースし、レニングラード以外の都市でも一定の人気を博す。これはソ連で初めてリリースされたスカアルバムの一つであり、「磁気アルバム100枚」にも選ばれている。彼らは歌詞にダダイズム(1910年代半ばにヨーロッパやニューヨーク、日本でも起こったニヒリズムを根底に持った芸術運動。ロシアアヴァンギャルドにも繋がる)の詩人の詩を使っているというのが特徴である。これはメンバーが誰も歌詞が書けなかったのが理由である。そういう事もあって「明るく陽気なスカ」というよりちょっと一ひねりある洒落た音作りとなっている。
1984年に方向性の違いによりアレクサンドル・ダヴィドフとニコライ・クリコフスキフが脱退するが、その2ヶ月後にダヴィドフは薬物の過剰摂取による心臓発作で死亡。バンドはそのまま活動を続け、1986年に「Смотри в оба(Keep Your Eyes Open)」をリリース。ダヴィドフがいなくなったことにより音楽性は変わり、レゲエ要素が消え、より知的でアヴァンギャルドな方向性にシフト。正直このアルバムを聴いても「スカバンドなの?」と思うだろう。

このアルバムからの数曲は、Tsentrの項でも書いたアメリカ人のジョアンナ・スティングレイによる1986年のコンピ「Red Wave」に収録された。このアルバムについてはこの記事で書いているが、アメリカ人のスティングレイはレニングラードのロックシーンに感銘を受け居着いてしまい(3ヶ月ごとにアメリカとソ連を行き来して、アメリカから持ってきた機材をせっせとレニングラードのバンドにプレゼントしていた)、このアルバムで初めてソ連のバンドをアメリカに紹介した。全4バンドが収録されていて、他は今でも絶大な知名度を誇るKino、Aquarium、Alisaと後に大スターになったバンドばかりだ。それに比べるとStrannyye Igryは圧倒的に名前が知られていないが、これは彼らの音楽性(前衛傾向)と、86年には既にバンドは分裂していて存在していなかったからだろう。(「Смотри в оба」は85年に録音、その後解散)。
なお上↑のビデオクリップはスティングレイのチャンネルのもので、85年にセルゲイ・クリョーヒン(ジャズ/アヴァンギャルドのミュージシャン、Pop-Mekhanika主催)とゲオルギー・グリヤノフ(Kinoのドラマー)の協力で撮影された。

彼らは85年にAVIA(グセフ、ラホフ、コンドラシュキン)とIgry(ソログブ兄弟)に分裂する。

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AVIA(АВИА)

AVIAはStrannyye Igryのメンバーだったニコライ・グセフ、アレクセイ・ラホフ、アレクサンドル・コンドラシュキンによって1985年に結成されたニューウェイブ/アートロックバンドである。1986年にアレクセイ・ヴィシュニャによってレコーディングされた1stアルバム「Жизнь и творчество композитора Зудова(作曲家ズドフの生涯と作品)」をリリースし、ライブデビュー。

サックスのアレクセイ・ラホフがいることもあってStrannyye Igryのスカ要素を引き継いではいるが、彼らの特徴はその前衛的なライブパフォーマンスである。メンバーの数が少ないにもかかわらず使用楽器が多かったため、彼らはステージで楽器から楽器へ移動しながら演奏しなければならなかった。これがドタバタと走り回っているように見えなくするため、彼らはすべてのアクションを演劇的に行う事にした。パントマイム俳優やバックコーラスの女性シンガー達など多くのメンバーがステージに上がり、ソ連初期の構成主義の美学やスポーツ選手の行進といったものが再現された。ライブでは曲を演奏するだけではなく、ドタバタ劇やパントマイム、体操、ダンス、アクロバットなどが盛り込まれ、こういったものが行進曲からハードロックまでの多種多様な音楽と組み合わされていた。どういうものかは上↑の動画を見ていただければ分かるだろう。

なおこれはTsentrの動画もそうだが、「ミュージカル・リング(Музыкальный ринг)」と呼ばれる伝説の大人気番組で、毎回ロックバンドがリングで対決する、というものだったらしい。88年からは生放送されて、電話やコンピューター通信(「パソコン通信」の事か?80年代にパソ通ってあったっけ?ソ連は進んでたのか?)から一般視聴者がバンドに質問したり投票出来たりと視聴者参加番組になって人気沸騰。Wikipediaによると1989年には日本のShow-ya(?!)やラトーヤ・ジャクソンマイケル・ジャクソンの姉)も出演したらしい。AVIAはこの番組に出演後、ソ連各地のライブで人気爆発だったそうだ(この記事の最後の映画「ソビエトニューウェイブの英雄たち」で話していた)。

フィンランド出身で世界的に人気のあったHanoi Rocksのマネージャーと協力して積極的に西ヨーロッパをツアーし、1990年にはイギリスのレーベルから「AVIA」をリリースした。
ソ連崩壊後はバンドは休止状態となる。最後のアルバムは1996年にリリースされた。その後は何度か大きなイベントの出演で単発的に再結成している。直近では2019年にフェスティバルに出演している。

構成主義やメイエルホリドの前衛演劇といったロシアアヴァンギャルドの要素を取り入れているロックバンドは他にいるのか、いたとしたらいつ頃からいたのか、といった事はよく分からないが、ソ連末期の人々には非常に新鮮に映ったようなので斬新なアイデアだったのだろう。個人的に構成主義が大好きなので、こういう美意識を持ったバンドの存在を知る事が出来て嬉しい。Strannyye Igryでもダダイストの詩を歌詞にしていたのもあるし、前衛の系譜がここで花開いたのであった。

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Igry(Игры)

Igry(=Game)のこのビデオも「ミュージカルリング」からの物である。85年にStrannyye Igryが二つに分裂し、Igryはヴィクトルとグリゴリーのソグロブ兄弟によって85年に結成された。
分裂した片割れのAVIAは大人数でステージを埋めなんだかんだとにぎやかなライブをやるようだが、Igryはソリッドなポストパンクを目指した。ロシアのポストパンクの場合、Kinoも今のバンドも含めJoy Divisionのようになってしまうパターンが腐る程いるが、IgryはKilling JokeやThe Cult、The CureにThe Sisters of Mercyとちょっと他のバンドとは違うお手本を挙げている。結果リズムに変化のあるカチッとしたアルバムが出来上がった。お手本バンドが好みだからか、1989年に出した1stアルバム「Крик в жизни(Scream in Life)」と同年の2nd「"Детерминизм(Determinism)」は非常に気に入った。彼らはソ連ポスト・パンクの美学、ゴシック、ギター・ミニマリズムのアイデアを最初に導入したバンドであったらしい。ヨーロッパでもコンサートを成功させた。
また歌詞はStrannyye Igryの伝統を引き継いで現代ヨーロッパの詩集から引用した。

1992年以降はIgryは存在しなくなり、各メンバーはソロ活動を始めた。
2013年にドラマーのイーゴリ・チェリードニクの誕生日を祝うために、メンバーは20年ぶりに集結した。グリゴリー・ソグロブは2009年に亡くなっていたので、彼の息子のフィリップが後任となった。これがきっかけでバンドは再びツアーをするようになった。

また、Strannyye Igryの元メンバー同士であったヴィクトル・ソグロブとアレクセイ・ラホフは1998年にDeadushki(Deadушки)というブレイクビーツプロジェクトを結成し、アルバムも数枚リリースしている。2004年に休止したが、2016年に再結成した。

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Televizor(Телевизор)

Televizor(=Television)は1984年にレニングラード大学哲学科英語学科の学生だったミハイル・ボルジキン(Михаил Борзыкин)を中心に結成された。Televizorは現在も活動しているが、オリジナルメンバーはボルジキンのみで、今は彼のソロプロジェクトと言っていいだろう。
彼らは重くダークなシンセポップバンドで、無機質なシンセサイザーサウンドと感情表現豊かなヴォーカルという組み合わせはDepeche Mode的な発想だが、Biokonstruktorのような「曲調もDMそっくり」という訳ではない。ボルジキンのヴォーカルはAlisaのコンスタンティン・キンチェフのようなちょっと暑苦しさのある情熱タイプで、こういうヴォーカルはロシアンロック寄りと言えるだろう。Biokonstruktorはもっとサラッとしているのでより現代的かも知れない。Televizorはそういう意味ではシンセポップをしっかりとロシア風に落とし込んだバンドだろう。

この記事で採り上げているバンドは政治的なメッセージを強く出す事よりも芸術的な表現に重きを置いているタイプが多いが、Televizorはキャリアを通じて非常に強く反権力的な姿勢を打ち出しているバンドである。結成直後にレニングラード・ロッククラブに参加し、フェスティバルで受賞したりとすぐに注目を集めた。1985年に発表したデビューアルバム「Шествие рыб(Procession of Fishes、魚の行列)」は88年にメロディヤからレコードリリースされ100万枚も売れたらしい。
ソ連ではコンサートで演奏する曲は事前に当局に歌詞を提出して演奏許可をもらう必要があったが、彼らは86年6月のロッククラブのフェスティバルで不合格だった曲を演奏し大騒ぎになった。彼らはソ連で初めて「未許可」の曲を演奏したバンドとなり、これによってあらゆるブラックリストに載り、6ヶ月間コンサートが禁止された。87年にリリースした「Отечество иллюзий(Fatherland of Illusions 幻想の祖国)」ではさらに過激な「Рыба гниёт с головы(魚は頭から腐る)」「Твой папа — Фашист(お前のパパはファシストだ)」といった曲を収録。

↑「お前のパパはファシストだ」のビデオクリップ。87年は既にペレストロイカが始まっていたとはいえ、よくこんなビデオが作れたなと思う。「サーチライト・オブ・ペレストロイカ」というテレビ番組の一環として作られたものらしい。やはりこれらの曲はリスナーを驚かせ、当局をいらつかせたが、このアルバムは彼らのアルバムでも最も人気があり「磁気アルバム100枚」にも選ばれている。

ソ連崩壊後はメンバーの脱退が相次ぎ、またボルジキンがDTMのスキルを身に付けた事により独力でアルバムを作るようになった。
2007年以降、ボルジキンは反政府運動のデモ行進などのイベントに頻繁に参加するようになった。そのうちの1つで、ボルジキンは現代ロシアの現実とプーチンの統治スタイルを批判した「Заколотите подвал(Board Up the Basement 地下室に乗り込む)」と呼ばれる新曲を演奏した。2000年代は半ば過去のバンドになっていたTelevizorだが、こうした事で現代性を取り戻し一部から再注目されるようになった。2008年に予定されていたテレビ出演は局側からキャンセルされた。また「Заколотите подвал」には「クレムリャドという言葉が含まれているため、彼らはロシアのテレビからブロックされているらしい。

★クレムリャド(кремлядь )
クレムリン+売春婦」から作られた造語で、クレムリンに近い政治家・芸術家・役人を指す。彼らは最高当局に奉仕し、権力を握っている政党にプロパガンダ支援を提供し、しばしば国民に有害な、あるいは単にばかばかしい行為や決定を行うことで収入を得ている。

2009年にはサンクトペテルブルクで結成25周年を祝う大規模な単独コンサートを行った。これには過去に在籍したメンバーも参加した。2014年には30周年コンサートを開催。
クリミア併合の翌年の2015年、キエフでのコンサートで彼らは「Ты прости нас, Украина(許してください、ウクライナ)」という新曲を演奏した。↓

そんなこんなでウクライナ侵攻も当然批判しているようだが、ボルジキンはかなり前からフィンランドに住んでいるらしい(VKのコメント欄で見た情報なので正確ではないかも)。そのためか「外国工作員」には指定されていないようだ。年に一度くらいサンクトペテルブルクやモスクワでライブをやっているらしい。
なお彼らのアルバムは日本のサブスクでは最近のものとベスト盤くらいしか聴けないようだが、Apple Musicでは「トップソング」の所からアルバムの所にない曲も聴ける。
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Kofe(Кофе)

Kofe(=Coffee)は1983年に結成されたシンセポップバンドである。メンバーはスタニスラフ ・ ティシャコフ(Станислав Тишаков、B)、エドゥアルド・ネステレンコ(Эдуард Нестеренко、G) 、アレクサンドル・セニン(Александр Сенин、Ds)、グリゴリー・コベシャヴィゼ(Григорий Кобешавидзе、Vo)で大学生だった。彼らのアルバムは2013年になって初めて正式にCDとLPで発売され、2021年にデジタルプラットフォームで配信され始めたので、近年になって急激に再評価が進んでいるバンドの代表格である。

1984年にアレクセイ・ヴィシュニャの初のプロデュース作品であるデビューアルバム「Балет(Ballet)」をリリースし、レニングラードのロックシーンで一定の反響を呼んだ。このアルバムはThe Policeの影響からかレゲエの要素のあるニューウェイブサウンドだった。同年レニングラード・ロッククラブに参加し、コンサート活動を行った。
翌85年にTelevizorを脱退したイーゴリ・コピロフ(Игорь Копылов、B)とイーゴリ・ペトロフ(Игорь Петров、G/Key/Sax)が加わって6人組となり、プロフェッショナルなアプローチをもたらした。
86年には再びヴィシュニャのプロデュースでよりエレクトロニックサウンドとなったアルバム「Баланс(Balance)」をリリースし、大きな成功を収めた。サウンドDuran Duran(セニンが大好きで当時のパーティーで1stをかけまくっていたらしい。最後のアルバムタイトル曲のコーラスがDDの「Planet Earth」によく似てるのはご愛敬!)やUltravoxの影響を受けたものとなっており、完全にシンセポップになっている。このアルバムの曲「Zero」(上↑の動画)は大ヒットシングルとなりテレビ出演も果たした。このアルバムは楽曲のクオリティが非常に高いので、是非一聴をお勧めする。この時代の全世界のシンセポップと比べても全く見劣りしない。イギリスのB級シンセポップを聴くなら絶対Kofeを優先して聴いた方がいい。キャッチーなメロディとセンスのいいアレンジ、時折見せる玄人受けしそうな前衛の匂いが、まさに絶妙な「バランス」で成り立っている。

↑Kofeの「Zero」は「Russian Doomer Music」(これについてはこちらの記事で)のYouTube動画で大人気の現代のポストパンクバンドChernikovskaya Hata(Черниковская хата)が2016年にカバーバージョンをリリースしている。これは2018年のモスクワの16Tons Clubでのライブ映像である。このように今のバンドに影響を与えているのが見て取れる。ちなみにChernikovskaya HataはTekhnologiyaの「Нажми на кнопку」もカバーしている。

プロとして十分やっていける見通しが立っていたにもかかわらず、メンバーの大学卒業と方向性の違いにより、1987年にKofeは解散した。ティシャコフはアンドレイ・パノフのAvtomaticheskiye Udovletvoriteliに加入、コピロフとペトロフGPUを結成したがすぐに消滅。そしてネステレンコ、セニン、コピロフはPetlya Nesterova(Петля Нестерова)を結成する。

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Petlya Nesterova(Петля Нестерова)

Petlya Nesterova(=Nesterov's Loop 「ネステロフのループ」とは飛行機の曲芸飛行の技の名前)はKofe解散後の1987年に元メンバーのエドゥアルド・ネステレンコ(G/Vo)、イーゴリ・コピロフ(B)、アレクサンドル・セニン(Ds)で結成された。Kofeはニューロマンティックなシンセポップだったが、ネステレンコがよりモダンでミニマリスティックなギターポストパンクをやりたいという事でPetlya Nesterovaの結成となった。Kofeはメンバーが6人もいたので、ネステレンコは自分のギターアレンジが邪魔されることがしばしばあり完全にコントロールできるバンドがやりたかったらしい。
結成してすぐの1988年の冬にレニングラード・ロッククラブに参加し、フェスでの演奏が批評家から高い評価を受けてコンサート活動を開始した。
1989年、アレクセイ・ヴィシュニャのプロデュースでデビューアルバム「Кто здесь?(Who Is There?)」をリリース。ジャケットデザインは当時グラフィックデザイナーとして働いていたコピロフによるものである。Echo and the BunnymenやThe CureThe SmithsU2等の影響下にある硬質で緊張感のあるポストパンクとなっている。これも非常に良い内容なので是非一聴を。
アルバムはレニングラードで非常に人気となり、翌90年を通じてカリーニングラードからカムチャッカまでソ連国内を積極的にツアーした。Kinoのコンサートのサポートとして1万人の観客の前でも演奏した。

ネステレンコは同じスピリットを持つDurnoye Vliyaniye(後述)にも参加していた(’88-’89)がPetlya Nesterovaが忙しくなったのでこっちに専念。コピロフは既に大人気バンドとなっていたNautilus Pompiliusに招かれ、両方のバンドを兼務。
1990年夏にはPetlya Nesterovaはドイツのハンブルクでの公演も経験(↑上の動画)。英語で曲紹介をしている。このドイツ公演後、コピロフはNautilus Pompiliusに引き抜かれた。

91年初頭に新ベーシストを入れて活動再開しフェスやベラルーシ公演などもあったが、その年の後半はほとんどライブ活動がなかったためセニンは音楽活動を辞める事を決意。アレクセイ・ヴィシュニャのツアーに同行した後、ラジオ局やテレビ局の仕事に就いたのでバンドは一度解散した。

ソ連崩壊後の92年に新ドラマーを入れて活動再開、オリジナルメンバーはネステレンコ一人になった。次のアルバム用に作った曲はラジオのヒットチャートにも入り確固とした地位を築いたが、メンバーの出入りが激しく96年にバンドは再び解散。なおこの間ネステレンコはBravoやLeningrad、Televizorなどのメンバーからなるスーパーバンド「Happy Bitrhday!」のメンバーとしても活動した。
98年にまた再結成し良いメンバーに恵まれたが、ドラマーをAquariumに引き抜かれる。ネステレンコはアルバムの曲を書いていたが、ロシアの経済危機の影響と他のメンバーとの関係がうまくいかなかったため、スタジオレコーディングが出来なかった。2001年にやっと2ndアルバム「Salto Mortale」を発表。その後ドラムマシンを使ったり(ドラマーをNautilus Pompiliusを解散したヴィャチェスラフ・ブトゥーソフの新バンドに引き抜かれたため)IDMミュージシャンが参加したりと音楽的に新鮮なものとなったが、次第にバンドの活動は断続的になり、ネステレンコはセッション活動やゲスト公演に集中した。

2008年の初め、ネステレンコはガンと診断され、胃潰瘍を発症。大量失血で手術を受けたが、2008年10月30日に死去した。彼の死去によりPetlya Nesterovaは消滅した。

ネステレンコの死の翌年の2009年、彼の友人のミュージシャンたちによるトリビュートアルバム「ED. Посвящение Эдику Нестеренко и группе Петля Нестероваエド。エディク・ネステレンコとグループ「ネステロフズ・ループ」に捧げる)がリリースされた。これはネステレンコの曲を友人たちがカバーしたものである。
また2011年にも彼へのトリビュートアルバム「Вавилонская башня(バベルの塔)」がリリースされた。これはこのタイトルで発表予定だったPetlya Nesterovaのアルバム曲を友人達が演奏したものと、ネステレンコの未発表曲や他のプロジェクトへの参加曲などを集めたダブルCDである。
さらに2019年にはPetlya Nesterovaの1stアルバム「Кто здесь?(Who Is There?)」(当時はカセットテープでのリリースだった)がボーナストラック入りで初めてCDで再発された。

そして2019年、Kofeがオリジナルメンバーのスタニスラフ・ティシャコフ、グリゴリー・コベシャヴィゼ、アレクサンダー・セニンで再結成された。死去したエドゥアルド・ネステレンコの代わりにはMultFilmy(МультFильмы=Cartoon 1998年結成のインディーロックバンド)のエフゲニー・ラザレンコが参加。オフィシャルYouTubeチャンネルも設立され、新しいビデオも公開された。

↑これはKofeの1stアルバム「Балет(Ballet)」の曲の再録である。ギターのエフゲニー・ラザレンコだけがやっぱり若い(笑)。現代的な音に生まれ変わっている。このチャンネルは現在もせっせと新しいビデオがアップされているが、あまり知られていないのか再生数が少ない。
なお2020年にはこの曲も含む、過去曲の再録やリミックスを収録した「Баланс+(Balance+)」がリリースされた。
そして2021年にはKofeの本「Группа "Кофе". В поисках баланса(グループ コーヒー、バランスを求めて)」がクラウドファンディングで出版された。

↑さらには2022年にKofeのドキュメンタリー映画「Ставлю на зеро: История группы "Кофе" (ゼロに賭ける:グループ「コーヒー」の歴史)」が公開された。Kofeとエドゥアルド・ネステレンコについての映画だ。アレクセイ・ヴィシュニャも登場している。字幕設定で日本語訳も出せる(ちょっとガタついてるけど)。このようにKofeは現在進行形で再評価中というのが分かる。
この記事を書いていて、エドゥアルド・ネステレンコという人は才能に溢れ、優れたメンバーを見付けるセンスも存分にあったのに、それが災いしてビッグバンドに何度もメンバーを引き抜かれてしまい、その都度バンドの活動が停止してしまうという事の繰り返しだった事が分かった。そして45歳でガンで死去と、なんとも悲運の人だ。でもトリビュートアルバムが2枚も出たという事は、仲間からはとても愛されていたのだろう。KofeもPetlya Nesterovaも非常に優れたアルバムを残しているので、是非聴いてみてほしい。次のDurnoye Vliyaniyeのアルバムも素晴らしい。この記事のリサーチで個人的にも「エディク」に愛着が湧いた。彼のギタープレイが好きなんだと思う。

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Durnoye Vliyaniye(Дурное влияние)

Durnoye Vliyaniye(=Bad Influence)は1987年にドミトリー・ペトロフ(Дмитрий Петров、B)とイーゴリ・モシン(Игорь Мосин、Ds)で結成されたポストパンクバンドである。次いでギタリストのヴァディム・クドリャフツェフ(Вадим Кудрявцев)が参加し、フェルナン・レジェ(フランスのキュビズムの画家)の映画にちなんでMekhanicheskiy Balet(Механический балет、「バレエ・メカニック1924年の実験映画。撮影はマン・レイ)という名前でリハーサルを始めた。ヴォーカリストを探し始め、元Монумент Страха(恐怖の記念碑)で歌詞が書け、Bauhausのピーター・マーフィーに似ていたアレクサンドル・スクヴォルツォフ(Александр Скворцов)が加入した。1988年にレニングラード・ロッククラブに参加し、コンサート活動を開始。

88年10月にヴァディム・クドリャフツェフが妻の看病のために脱退したので、12月に上記のPetlya Nesterovaのエドゥアルド・ネステレンコがギタリストとして参加。(↑上のライブ動画のギターはクドリャフツェフだと思われる)
ネステレンコが入って鉄壁の布陣となった彼らは1989年4月、アルテミー・トロイツキー(度々出てくる伝説のロックジャーナリスト)主催のSonic Youthソ連ツアーのオープニングアクトに起用される。

89年秋、1stアルバム「Неподвижность(Immobility 不動)」をレコーディング(よってこのアルバムでギターを弾いているのはエドゥアルド・ネステレンコ)。しかしメンバーが音質に満足できなかったため、リリースせずいくつかのコピーテープを友人に配布するにとどまった。なのでこのアルバムにはオリジナルジャケットが存在しない。この項の最初の動画「Сейчас(Now)」と↓下の「24 часа(24 Hours)」はこのアルバムの曲のビデオクリップであるが、この時代のソ連のクリップとしてはかなり頑張って編集やライティングをやっている。「Сейчас」のビデオはBauhausのストロボを効果的に使った映像をなぞっているのがすぐわかる。なおこれらのビデオクリップは、映画を学んだモシンによって撮影されているらしい。
このアルバムは本当に素晴らしいので是非聴いてもらいたい。Bauhausが大好きなんだろうな~と思うようなサウンドだが、ロシアンロックっぽい泥臭さは一切なく、闇を切り裂く鋭利なギターワークと研ぎ澄まされたリズムに、存在感とカリスマ性を備えたヴォーカル、何かに追われているような緊迫感、これはもう「ロシアのBauhaus」というか「ロシアンゴシックの祖」と言えるだろう。

ソ連ロック」の記事で書いたAgata KristiやPiknikをwikiで調べるとジャンルに「ゴシックロック」と書いてあったが、元々ゴスだった私にはなんだかモッサリと垢抜けなく感じられて、納得いかなかった。ロシアにはポストパンクは腐る程いるけどゴスはいないんかいな、と思っていたら、今回のリサーチで彼らを見付ける事が出来た。大収穫だ。

この録音直後にネステレンコがPetlya Nesterova多忙のため脱退したので、オレグ・ジャトコ(Олег Дзятко)が加入。
90年1月、彼らは初の海外ツアーで西ドイツ8都市を回った。6月にテレビ番組「ポップ・アンテナ」に出演したが、この時までにメンバー間の意見の相違が激化し始め、同月アレクサンドル・スクヴォルツォフが脱退。ギターのオレグ・ジャトコがヴォーカルも兼任した。
スクヴォルツォフの脱退でサウンドがポストパンクからハードコアに変化。フェスやテレビにも出演した。このメンバーで91年に2ndアルバム「Give Me New God」をレコーディングするが、公式には公開されていないらしい(そんなんばっかだな)。91年夏にAquariumのセヴァ・ガッケルがソ連初の民間のロッククラブTaMtAmをオープンすると、彼らはここで演奏し始めた(TaMtAmについては個別記事を書く予定)。
しかしジャトコが船員だったので長期間不在がちで、活動が思うようにできず91年末までにバンドは消滅した。

↑これはハードコア期のライブ映像だと思われる(言う程ハードコアでもないが)。キーウでの公演。英語で歌っているので新たな時代への兆候が感じられるが、短命に終わってしまったのが残念だ。かっこいい演奏!2ndアルバムの曲だと思われるが、Bandcampで公開してくれないものか。

バンド消滅後ドミトリー・ペトロフとイーゴリ・モシンはバンドを組んだが、Brigadniy Podryadでも演奏した(Brigadniy Podryadについてはこちらの記事で)。ペトロフは他にSpitfire(人気スカパンクバンド)などでも演奏した。モシンはバンド活動と並行して90年代初頭にラジオで働き始め、以後テレビ局でもプロデューサー、司会者として活動している。オレグ・ジャトコは船員として働き続けた。

アレクサンドル・スクヴォルツォフはDurnoye Vliyaniye脱退後、アートセンターの設立に参加したりして、その後しばらくヨーロッパに住んでいた。イギリス人の妻とイギリスに住んでいたこともあるようだ。ロシア版The CrampsのようなサイコビリーバンドMesser Chupsに参加したりした後、The Assisted Suicidesというバンドを結成。

2000年代にDurnoye Vliyaniyeの元メンバー達は何度か再結成を試みたが失敗に終わる。しかし2008年にエドゥアルド・ネステレンコが死去すると、12月の彼の追悼コンサートのために一時的に再結成。この時のメンバーはペトロフ、モシン、スクヴォルツォフと、後に再結成Kofeに参加するMultFilmyのエフゲニー・ラザレンコだった。思いがけずDurnoye VliyaniyeとKofe/Petlya Nesterovaのメンバーが再会した。
これが刺激になったのか、2011年にペトロフ、モシン、スクヴォルツォフと、新たにアンドレイ・コルデュコフが加わりライブ活動を始めた。↓

有名プロデューサーのイゴール・ベレゾヴェッツがバンドのディレクターになり、2012年にはこのメンバーで「Reunion Session 2012 EP」を発表(Petlya Nesterovaの曲もやっている)。彼のプランにはラジオでのプロモーションやInvasionフェスティバルへの出演などがあったが、同年11月の彼の予期せぬ死のため計画が頓挫してしまった。せっかくカムバックできそうだったのについてない。

2017年に彼らの1stアルバム「Н​е​п​о​д​в​и​ж​н​о​с​т​ь」がレコードで正式にリリースされた(2003年にカセットでリリースされていた)。2000年代初頭にアレクサンドル・スクヴォルツォフがミックス済みのカセットテープを発見し、デジタルリマスターしてリリースした。やっとこの傑作が世に出る事となった。

彼らのアルバムはBandcampで入手できる(「Н​е​п​о​д​в​и​ж​н​о​с​т​ь」と「Reunion Session 2012 EP」)。
またスクヴォルツォフのThe Assisted Suicidesの作品もBandcampにあるので是非どうぞ。
さらに2016年、アレクサンドル・”サーシャ”・スクヴォルツォフは「Eponymous」という回顧録を出版している。
彼らは現在活動しているのか分からないが、とりあえずVKアカウントは細々と投稿はある模様。

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Forum(Форум)

Forumはポップス作曲家のアレクサンドル・モロゾフ(Александр Морозов)が、解散したバンドForvard(Форвард)のメンバーを集めて1983年に結成したエレクトロポップバンドである。ソ連で一早く成功したシンセポップバンドでもある。
最初のラインナップはすぐに崩壊し、84年に残っていたベーシストのアレクサンドル・ナザロフがメンバーを一新。元Manufaktura(Мануфактура 工場の意味)でレニングラード・ロッククラブのフェスで最優秀ヴォーカリストに選ばれた経験のあるヴィクトル・サルトゥイコフ(Виктор Салтыков)が加入する。この布陣での最初のコンサートで大成功し、デビューアルバム「Белая ночь(White Night 白夜)」をリリース。このアルバムは84年にカセットテープで、87年にメロディヤからレコードでリリースされた。レコードは88年半ばまでに200万枚以上売れたらしい。なおこのアルバムはサルトゥイコフが参加している唯一のスタジオアルバムである。作曲はモロゾフとナザロフ。
彼らは85年を通じて活発にツアーし、86年までには「国内で最も人気のあるバンド」と雑誌や新聞から呼ばれた。テレビにも出演した。

彼らはメンバーが自主的に組んだバンドではなく作曲家のプロジェクトのようなものだったので(日本で言うとC-C-Bみたいなもんか)、モロゾフの過干渉によりメンバーに不満が溜まり始める。1987年6月、サルトゥイコフとナザロフを含むメンバー4人が、作曲家のデヴィッド・トゥクマノフが前年に設立したElektroklub(Электроклуб)に移籍する。Forumは崩壊寸前になるが、後述のAuktYon(АукцЫон)のヴォーカリストだったセルゲイ・ロゴジンを迎えて活動継続。1994年まで活動した。

Elektroklubも作曲家によるポップス路線のシンセポップであったが、サルトゥイコフの加入により大きな人気を得た。↑のビデオではジョン・ボン・ジョヴィみたいになっている。彼は90年にElektroklubを脱退。彼の人気で持っていたので、その後Elektroklubの人気は下降。93年に解散。

ForumもElektroklubもサルトゥイコフの特徴的なヴォーカルが一番の魅力だろう。彼の個性的な声とキャッチーなシンセポップの組み合わせはそりゃ売れるわと思うようなものだ。曲はプロの作曲家が作っているから非常によくできている。ポップスとしては極上だ。ただメンバーによる作詞作曲じゃないと、と思うようなタイプ(私です)には物足りないかもしれない。主導権もメンバーにはないのもこの記事で扱っているバンドの中では異質だが、ソ連のシンセポップバンドとしては非常に売れたのでやはり無視する訳にはいかないだろう。ジャケがクソダサなのもポップスバンドらしい(笑)。メンバーに主導権があったらあんなジャケでは出さない。

なお、ヴィクトル・サルトゥイコフもForumの後任のセルゲイ・ロゴジンも、ロシアのクリミア併合とウクライナ侵攻を支持し、ウクライナ政府の制裁対象になっている。サルトゥイコフは「懐メロスター」的な感じで今でもForumの曲を歌っているらしい。

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Auktyon(АукцЫон)

現在も活動しているエクスペリメンタル・ロックバンドAuktyon(=Auction 競売)の結成は1978年に遡る。ギタリストのレオニード・フェドロフ(Леонид Фёдоров)を中心にクラスメートで結成された。最初のバンド名はПараграф(パラグラフ)、次いでФаэтон(フェートン)だった。オレグ・ガルクシャ(Олег Гаркуша)と知り合い、彼も80年に加入。彼はステージでは道化的な役割を担い、ダンス、ヴォーカル、詩の朗読などと共に場合によって楽器も演奏。彼の加入によってパフォーマンス要素も取り入れたステージ構成になった。
1983年、Aquariumのメンバーに勧められてレニングラード・ロッククラブに参加する。この頃にバンド名をAuktyonに変更。正式にロッククラブの所属になったにもかかわらず、バンドメンバーが定着せず85年まで活動停止する。メンバーが徴兵から戻ってきたりして安定してきた85年初めから、バンドは活発なリハーサルを開始。86年のロッククラブのフェスティバルで成功を収める。

フェドロフは舌足らずで発音に自信がなかったので、メインヴォーカリストとしてセルゲイ・ロゴジン(その後上記のForumに参加)を迎える。メンバーには管楽器担当もおり、8人程の大所帯だった。また舞台美術担当のアーティスト、キリル・ミラーも参加し、演劇的要素を盛り込んだステージングだったようだ(この時代は上で書いたAVIAやNII Kosmetikiと、パフォーマンス要素も含んだ大所帯バンドが多かったようだ。日本で言うと時代的にも米米CLUBみたいな感覚か?)。
86年にデビューアルバム「Вернись в Сорренто(Come back to Sorrento)」を録音するが、地下で出回っていたのみで1997年まで正式にリリースされなかった。ジャズとアートパンクとニューウェイブがミックスしたような音である。

87年にはもう人気バンドになっており、バンドが映画にカメオ出演したり、オレグ・ガルクシャが主人公の友人役で出演(彼はその後俳優として多数の映画に出演する)。
ロッククラブのフェスティバルの後、セルゲイ・ロゴジンが脱退してForumに加入(前衛系からいきなりどポップバンドへの衝撃の転身!)。新ヴォーカリスト兼ヴァイオリニストとしてエフゲニー・ディアトロフが加入した。
88年、バンドは2枚目のアルバム「Как я стал предателем(How I Became a Traitor)」を初めてプロフェッショナルな環境でレコーディングした。89年はこのアルバムのツアーでKinoやZvuki Mu、Va-Bankといった人気バンドと共演。海外ツアーも経験した。フランスでのフェスではストリップショーの真似事をして下着姿になったため、ソ連の新聞から否定的に書かれた。↑上の動画の人気テレビ番組「ミュージカル・リング」の出演時にはその時と同じ曲を演奏したため、聴衆から「あなたの意図的に退廃的な演奏スタイルはソ連のロックに対する信用を傷つけているように見える」という指摘を受けた。

彼らのようなアート系はソ連崩壊後は商業的な音楽シーンについていけず解散するパターンが多いが、Auktyonの全盛期は90年代だった。彼らの一番の人気作品は93年にリリースされた「Птица(Bird)」である。

彼らの一番有名な曲は「Дорога(Road)」(視聴に年齢制限があって埋め込めないのでテキストリンクです)で、映画やゲームにも使われた。このアルバムは2010年にAfisha誌の「ロシア史上最高のアルバム50」で2位になった。洒落たリズムとアレンジで、今聴いても全然古くない。フォークの要素も感じられる。

90年代後半はロシアよりも海外での活動が多くなり、特にドイツでは頻繁にコンサートが行われた。フェドロフのソロ活動が活発化してAuktyonでの活動は少なくなったが、2007年に12年ぶりのフルアルバムをリリース。以降は大物らしいゆったりとした活動で現在に至る。

彼らのようなソ連時代からの超ベテランのアート系バンドは、若いリスナーの多いSpotifyではびっくりするくらい月間リスナー数が少なかったりするが、11万人以上いるので今の若者にもかなり聴かれていると考えていいだろう。意外とメロディがキャッチーだったりするので聴きやすいのかも知れない。

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シベリア・シーン

以上圧倒的に数の多い大都会モスクワとレニングラードのバンドを紹介してきたが、地方にもわずかながら個性的なバンドがいた。地方では独特のDIYパンクシーンを形成していたシベリアが注目に値する。ペレストロイカレニングラードやモスクワのシーンが商業化しても、シベリアのシーンはアンダーグラウンドである事にこだわり続けた。
日本からすると「シベリア」と聞いたら「シベリア抑留」もあるので凍てついた地の果てを想像するが、ノヴォシビルスク(ロシアで3番目に人口の多い都市)やオムスクなど意外と100万都市が多い。鉱業・工業都市が多いので、モスクワやレニングラードのようなインテリではなくブルーカラー色が強いのも特徴だ。そして「工業」都市だからか知らないが、インダストリアル的なバンドが見つかるのが面白い。シベリアンパンクの雄Grazhdanskaya Oboronaのイゴール・レトフのサイドプロジェクトKommunizm(Коммунизм)もインダストリアル要素のある実験音楽をやっていた。
シベリアン・パンク(Sib-punk)についてはこちらで書いているのでどうぞ。
また地理的な事は「ロシアの地理・歴史ざっくり知識」の記事で書いているのでどうぞ。

個人的にインダストリアルヲタなので、ここで採り上げるバンドはゴリゴリのマニアにしか知られていないようだが「こんなバンドがソ連にいたんだ!!!」と狂喜したため偏り激しめでご紹介します。なおシベリアのニューウェイブは「Sib-wave」と呼ぶらしい。

Zakrytoye Predpriyatiye(Закрытое Предприятие)

Zakrytoye Predpriyatiye(=Closed Enterprise 「閉鎖企業、廃業」)はシベリアのノヴォシビルスクで1986年に結成されたダークウェイブ/シンセポップ/EBMバンドである。シベリアのニューウェイブを代表するバンドで、Depeche ModeKraftwerkを混ぜてインダストリアルを加えたような音である。結成時のメンバーはアンドレイ・バルコフ(Андрей Барков、Vo/G)、アルカディ・ゴロビン(Аркадий Головин、Synth/Vo)、ニコライ・ディーゼンドルフ(Николай Дизендорф、B)の3人。このメンバーでは89年まで継続し、89年から解散の94年まではアルカディ・ゴロビンがリーダーとなって新しいラインナップとなっている。

結成後すぐに1stアルバム「Комендатура(Commandant's office 司令官室)」を制作開始(87年リリース)。
87年にノヴォシビルスク・ロッククラブ(ノヴォシビルスクにもあったんですね)のフェスに出演後メンバーとなる。シンセバンドであっても初期はドラマーもいてギターも弾き、比較的普通のロックバンドの形態でやっていたが、次第にドラムマシンとシンセサイザーで完結する完全なエレクトロニックバンドとなる。(88年には後述のPromyshlennaya Arkhitekturaのメンバーだったドラマー、レナート・ヴァヒドフが一時参加していた)
がっつりエレクトロニックなバンドとしてはモスクワのBiokonstruktorの1stも1987年、レニングラードのKofeの「Balance」が86年だから、彼らはほぼこれらの大都会のバンドと同時進行でシンセサイザー中心の音楽をやっていた事になる。シベリアが地方とは言えいかに進んでいたかを表すものである。

1988年、彼らはイルクーツクのロックフェスティバルで1位を獲得する。同年2ndアルバム「Конструкция(Design、Construction)」をリリースし、ノヴォシビルスクのテレビ番組の収録もするが、「Я никому не должен(I Don't Owe Anyone、誰にも借りはない)」のビデオがイデオロギー的に危険だとされて(ソ連年代記の映像のカットが入っている)放映されなかった。↓

アンドレイ・バルコフがバンドを去り、ニコライ・ディーゼンドルフもドイツに行ったらしい?ので、1989年半ばにアルカディ・ゴロビン(リードVoになる)が新しいメンバーを編成する。セルゲイ・エクスジャン、アレクサンダー・ジュコフスキーと二人ともシンセサイザー担当。さらに女性シンセサイザー奏者のガリーナ・クリムコビッチもしばらく参加していた。ソ連のバンドを相当さらったが、80年代はほとんどちゃんとした女性メンバーのいるバンドはいなかったのでこれは結構早いのでは(90年になってからはロシアンフォークになったAlyansが女性シンガーを入れたり、Bioも奥さん候補を入れたりしたが)。↓はそのラインナップでのライブ。

活発なコンサート活動を続けていた彼らは、89年秋にフェスティバル「Next Stop Rock'n'Roll(英語タイトルです)」に参加。そして90年には上で書いたモスクワのTekhnologiyaのツアーのサポートに起用される。当時Tekhnologiyaは大人気バンドで、Zakrytoye Predpriyatiyeはシベリアで最もプロフェッショナルなエレクトロニックバンドだったので選ばれたらしい。
91年、レニングラードテレビはロシアで注目され始めたエレクトロニックミュージックの番組を制作し、Tekhnologiyaらと共にZakrytoye Predpriyatiyeも撮影に参加した。
この辺りが彼らの活動のピークであったが、1992年から1993年までに、商業音楽の新しい基準に適応することへの抵抗や、ロックムーブメントの衰退など、多くの理由によりメンバーの熱意は薄れていった。時折シベリアでライブをやっていたが、1994年のクリスマスイブのラストライブで活動は終了した。

Zakrytoye PredpriyatiyeをYouTubeで漁りまくっていたら、なんと彼らのドキュメンタリー映画を発見!↑ アルカディ・ゴロビン、ニコライ・ディーゼンドルフのメンバー以外にも、関わりのある周辺のミュージシャンが当時の事を語っている。PCだと自動翻訳の日本語字幕が出るけれども、これが相当ガタガタなので6割くらいしか理解できなかったがまぁないよりまし。スマホアプリだと英語訳しか出なかったが日本語訳を出す方法ある?この動画のアカウントはSib-punkの秘蔵動画をたくさん公開しているので、興味があればどうぞ。

↑こんなゴスメイクしたソ連人を見たのはこれが初めてだ!これ見付けて大興奮した。進歩的なレニングラードにもいなかった。シベリア恐るべし!これはベースのニコライ・ディーゼンドルフだと思われる。今の映像を見てもイケメンの名残がある(笑)。

彼らのアルバムはサブスクでは見つからなかった。1stと3rdがBandcampにあった。他はYouTubeに一部あったので、以下にリストアップ。

Музыкальная культура Сибири. Коллектив: "Закрытое предприятие"(シベリアの音楽文化 チーム:「クローズド・エンタープライズ」

↑このページはシベリアの音楽文化についてのサイトの記事だが、彼らについて詳しく書いてある。彼らの音は確かにDepeche ModeKraftwerkからの影響が感じられるが、「エレクトロニック」かつ「ダークウェイブ」という方向性をしっかりと持ったバンドは他には見当たらない。反復するビートの催眠性というのもあまり他のソ連のバンドには見られない現代的な感覚だ。そんな個性を持ったバンドがシベリアで見付かるというのは非常に面白い。

Yanka Dyagileva(Янка Дягилева)

また、「シベリアンパンクの女王」とされる(女王がいた!)ヤンカ・ディアギレワとZakrytoye Predpriyatiyeとのコラボ曲が3曲残されている。YouTubeで発見。

Янка Дягилева - Запись на репетеционной точке группы "ЗАКРЫТОЕ ПРЕДПРИЯТИЕ"(ヤンカ・ディアギレワ - グループ「CLOSED ENTERPRISE」のリハーサルポイントでの録音)

これはZPのメンバーは演奏はしていない?ようだが彼らのリハーサルルームでレコーディングされたらしい。ヤンカ・ディアギレワは1987年にイゴール・レトフと出会い、Grazhdanskaya Oboronaと全国ツアーをした。レトフのKommunizmにも参加。アンダーグラウンドで名声を得たが、インタビューを極度に嫌い「地上」メディアにはほとんど出る事がなく、メロディヤからのレコードリリースの申し出も断った。彼女は1991年5月にノヴォシビルスク近郊のダーチャ(ソ連から現在もあるロシア伝統の田舎のセカンドハウス。庶民でも持てた)から戻らなくなり、川で遺体で発見された(享年24歳)。これは自殺と他殺の説があり、未だ謎のままである。
彼女のアルバムはApple MusicSpotifyで聴ける。ZPとのコラボからすると、ロシア版パティ・スミスのような感じ?彼女は死後になって作品がリリースされていて、レトフと並ぶSib-punkのシンボルとなっているらしい。彼女を題材にした映画や演劇も上演されているようだ。さらに2013年、マンチェスター国際フェスティバルでMassive Attackエリザベス・フレイザーCocteau Twins)と共にヤンカの曲をロシア語で演奏したらしい(MAもCTも好きだけど全然知らなかった!)。
ロシア人のTwitter(現X)フォロワーさんによると、彼女はパンク/ヒッピー詩人というようなイメージで、自殺や自己犠牲についての曲ばかりらしい。イゴール・レトフからは結構ひどい扱いを受けたようだ(彼は妻帯者)。ロシアの病み/闇系女性シンガーの走りかも。日本で言ったら戸川純か?でももっとアンダーグラウンドだろう。

モスクワ、レニングラードアンダーグラウンドをさらってもなかなかソ連女性ロッカーが見付からなかったのに、Zakrytoye Predpriyatiyeをちょっと掘っただけで二人も見付かったのだから、シベリアのシーンは意外と男女問わず尊重されるリベラルな雰囲気だったのかも知れない(この辺はまだリサーチの必要ありだが)。ロシアは家父長制的な価値観が今でも保守層にかなり残っているようだが、現在のシベリアはどうなのだろうか。

Promyshlennaya Arkhitektura(Промышленная архитектура)

Promyshlennaya Arkhitektura(=Industrial Architecture)もノヴォシビルスクのバンドで、Grazhdanskaya Oboronaを脱退したドミトリー・セリバノフ(Дмитрий Селиванов)が1988年に結成したインダストリアルバンドである。彼の目的はインダストリアルとポストパンクの融合であった。彼はGrazhdanskaya Oborona以外にもКалинов мост(Kalinov most、カリノフ橋)やПутти(Putti)などシベリアの有名パンクバンドに多数在籍しており、シベリアでは名の知れた人気ギタリストだった。

88年9月にアルバム「Любовь и технология(Love and Technology)」(↑上の動画。これはライブ盤の「Live Architecture」も併せた動画)をノボシビルスク国立工科大学(NETI)の学生クラブで録音し、これがモスクワのロックフェスティバルの主催者の耳に入り出演する事になった。しかし交通費と滞在費は自費だった。フェスでの演奏中に突然音が消えてしまい、ライブは中止になった。
モスクワでの失敗後にバンドはノヴォシビルスクに戻り、鉄道労働者文化宮殿でのライブを録音した。これはライブアルバム「Live Architecture」(1988)となった。

1989年4月22日、セリバノフはリハーサルをしていた友達のバンドを訪ねてNETIにやって来た。夜7時頃に起きて(寝てた?)、「分かった、ここでやることがあるんだ。廊下の突き当りで」と言ってスカーフを持って出て行き、パイプで首吊り自殺をした。享年25歳。

セリバノフの死でPromyshlennaya Arkhitekturaは解散。残されたメンバーはМужского танца(Male Dance)という名前で活動した。ドラムのレナート・ヴァヒドフが一時上記のZakrytoye Predpriyatiyeに参加していた。
89年6月3日にセリバノフの追悼コンサートが開かれ、Grazhdanskaya Oboronaと上記のヤンカ・ディアギレワが演奏した。
彼の自殺とヤンカ・ディアギレワの自殺が疑われる死に方により、シベリアン・パンクには自殺のイメージが付いているようだ。モスクワもレニングラードも早死はしてもあまり自殺はいなかったような。

活動は1年未満、オリジナルアルバム一枚、ライブアルバム一枚だけ残したバンドだが、YouTubeの音源を聴いてみると(サブスクにはなかった)、Public Image LimitedSex Pistols解散後にジョン・ライドンが結成したポストパンクバンド)が鉄くずを叩いているような印象だ。ロシアのバンドが「海外のポストパンク」という時は7割Joy Division、2割The CureたまにBauhausで、PILやWireはほとんど言及されない。セリバノフはジョン・ライドンのような歌い方をするし、これはロシアでは比較的珍しいタイプだろう。
唯一のスタジオアルバム「Любовь и технология(Love and Technology)」はBandcampにもあった(上記のZakrytoye Predpriyatiyeもリリースしているロシアのレーベルで、ウクライナ侵攻の経済制裁によりPayPalが使えないので購入できない。でも聴くことはできる)。このアルバムは2001年にやっと正式にリリースされたらしい。それまでは地下で出回っていたテープのみ。
このアルバムは有名な「ロシアンロック」をちょっと聴いてみて「うっ!」と思った人には是非聴いてみてほしい。ロシアンロックのもっさい所は微塵もなく、キリっと引き締まって非常に垢抜けたサウンドとなっている。インダストリアルと言ってもドローン系ではなくポストパンクを目指しているので、多彩なアイデアのギタープレイと小気味よいリズムで飽きさせない。こんなアルバムをソ連時代のシベリアで録音していたとは驚きだ。ドミトリー・セリバノフは間違いなくある種の天才だろう。自殺しなかったらその後どんな音楽を作っていたのだろうか。
ライブ盤の「Live Architecture」もスタジオアルバムの楽曲をほぼ完璧に再現し、見事な演奏だ。なおZakrytoye Predpriyatiyeのようなシンセオリエンテッドではなく、あくまでもギターメインでシンセも使っている、という構成だ。ドラムはドラムマシンである。

また彼の短い人生をまとめた動画も公開されている。↓

これもPCだと自動翻訳の日本語字幕が出るが、スマホアプリでは英語だけだった。この日本語訳は比較的滑らかだ(これはどういう違いから?)。

また、セリバノフの追悼サイトもある。mp3音源もあるがダウンロードはウイルスソフトを通して慎重に。記述からするとアルバムの正式リリースに合わせた2001年辺りに作られたサイトのようだ。文章は冗長な面もあるが(セリバノフとは直接関係ない、イギリスのインダストリアルミュージックの歴史を解説したりとか)、ファンジン的な無償の愛と異様な熱気が感じられ、Sib-punkシーンの面影をちょっと窺うことができる。
シベリアン・パンク自体が昔も今もアンダーグラウンドなので誰もが知っているというミュージシャンではないが、個人的にも知る事が出来て人生が少し豊かになった気分である。素晴らしいミュージシャンだ。Zakrytoye Predpriyatiyeと共にサブスクでも解禁してほしいわ~。


少し逸れるが、私がロシアの音楽を聴くきっかけになった現代のバンドのShortparis(こちらに単独記事)は結成はサンクトペテルブルクだが、メンバーのうち3人はシベリアのノヴォクズネツク出身である。こういったSib-punkの遺産を感じながら育ったのは間違いない。VoのニコライはGrazhdanskaya Oboronaからの影響を公言している。彼らの音にインダストリアルの感触があるのも、シベリアで育ったからかも知れない。

映画「ソビエトニューウェイブの英雄たち(Герои советского нью-вейва)」

長々と書いてきたが、こうした80年代ソ連ニューウェイブバンドのメンバーにインタビューした映画「ソビエトニューウェイブの英雄たち(Герои советского нью-вейва)」が2016年にロシアの各都市と海外で上映された。↑上の動画はPCでもスマホアプリでも日本語の自動翻訳字幕が出るし、かなり自然な訳なので是非見てみてほしい。これは多分海外上映のための英語字幕を製作者側で用意していたからではないかと思う。上で貼ったNochnoy ProspektやBiokonstruktor、Kofeのドキュメンタリーと同じ監督によるもので、映像も一緒に撮ったと思われるものが一部使われている。

で、誰が誰だか分からないと思うので、スクショで登場人物紹介!すごい親切!

Tsentrのヴァシリー・シュモフ

Alyansのイゴール・ジュラヴレフ

Alyansのアンドレイ・トゥマノフ

Nochnoy Prospektのアレクセイ・ボリソフ

Biokonstruktorのアレクサンドル・ヤコブレフ

Kofeのアレクサンドル・セニン

Kofeのスタニスラフ(スタス) ・ ティシャコフ

Strannyye Igry/Igryのヴィクトル・ソログブ

Strannyye Igry/AVIAのアレクセイ・ラホフ

Durnoye Vliyaniyeのアレクサンドル(サーシャ)・スクヴォルツォフ

音楽ジャーナリストのアンドレイ・ブルラカ

なんだかんだでみんな今でも音楽活動を続けているのが嬉しい。ハゲちゃったりしてる人も多いが、Durnoye Vliyaniyeのアレクサンドル・スクヴォルツォフはさすがにピーター・マーフィーに似てるからバンドに入っただけの事はあって、今でもスラリとしたイケメンで現役臭がする。でもみんな知的ないい顔をしているので、これまでの人生は苦難はあっても良いものだったのだろう。これは2016年公開なので、AlyansがYouTubeで驚異のバイラル人気になる前である。その後にインタビューしたらまた違うものになっていただろう。再ブレイク後のAlyansはMTV Russiaのチャンネルに特集動画があったと思うので、興味があったらどうぞ。

ここで話していた事で印象に残っているものを挙げると、まずジョアンナ・スティングレイが「Red Wave」を出した時の話だ。ソ連政府は自国のバンドのレコードがアメリカで先に出された事に怒り心頭だったらしく、「誰がアメリカに音源を持ち出したんだ?!」とかえって監視が強化されたようだ。Strannyye Igry/Igryのアレクセイ・ラホフがやれやれといった表情で「『Red Wave』の時は最悪だった」と言っていた。
実際の所、ジョアンナ・スティングレイの存在は彼らにとってはどうだったのだろう。彼女の父親は反共産主義の映画を作っていたとか議員だったとか聞くので、裕福な家の娘ではあったのだろう。アメリカから機材をたくさん持ち帰ってプレゼントしてくれるありがたい存在ではあったらしい。

レニングラード・ロッククラブとモスクワ・ロック・ラボラトリーの違いも興味深い。レニングラードのロッククラブはまだロックへの締め付けがひどかった時期(1981年)に出来たので、バンド同士の結束が強かったらしい。モスクワは1985年のだいぶ締め付けも緩くなってきた時期に出来たのでそういう結束はなかったそうだ。またモスクワは巨大な都会であり、隣人が誰か知らずに生活できる街であるので、バンドはそれぞれ単体で、他にどんなバンドがいるのかあまり知らずに活動していたそうだ。いずれにしても、レニングラードもモスクワもバンドの居場所が出来たのは最高だったようで、みんな本当に楽しかったそうだ。
またこの時代は誰もがバンドをやっていて、女の子にモテるための必須条件だったらしい。

それから80年代のニューウェイブはロシアでもそのまま「New Wave」と呼ぶことも分かった。「新しい波」だから「новая волна(ノーヴャヤ・ヴォルナ)」かと思ったら、日本と同じく外来語だった。2010年代の新しいタイプのバンド群をBolフェスティバルのステパン・カザリアンが「Новая русская волна(New Russian Wave ノーヴァヤ・ルスカヤ・ヴォルナ)」と名付けたのは、80年代でもこうは呼ばれていなかったからだと言っていたが、なるほどと腹落ちした。

それとソ連でバンド活動を続ける事の難しさだ。大学生の時にバンドを始めて人気になった人が多いが、ソ連では学校を卒業したら必ず仕事に就かねばならない。音楽教育を受けた人は政府に管理される音楽活動を仕事にすることは出来るが、みんなそんな事は死んでも嫌な人ばかりだからここでバンド活動が断絶される。ソ連崩壊直前だったらプロ活動も出来ただろうが、87年辺りではまだ無理だ。

そしてソ連崩壊で一気に音楽界が商業ベースになった事に対する困惑と混乱だ。ソ連アンダーグラウンドのバンド活動をするという事は、言論統制はあっても全く「お金を稼ぐ」という事を気にしないでいいので(そもそも稼げない)、純粋に自分の理想を追求できる。別に売れ線の音楽なんかやらなくていいし、売れるために理想を犠牲にする必要もない。コンサートもロッククラブで無料で開催できる。
しかしソ連崩壊で資本主義社会になると、コンサート一つやるにしてもお金がかかるし、レコードが売れなければレーベルから首を切られる。「ソ連時代のロック」の記事で書いたバンド達は、上手く商業主義に切り替える事の出来たバンド達だ。だから90年代はメインストリームでビッグアーティストとして活動出来た。しかしこの記事のバンド達はアート性が強く不器用だったため、売れ線に切り替える事が出来ずにソ連崩壊後は解散や活動休止を余儀なくされた。Biokonstruktorのアレクサンドル・ヤコブレフがしみじみと「ソ連時代は素晴らしかった」と言っていたのがなんだか複雑だ。
彼らにとって90年代は試練の時代だった。生き抜く事に精いっぱいで、音楽どころではなかった。しかし生活が落ち着いてきた2000年代以降になると、彼らはまた集まって細々と活動再開する。

それとDurnoye Vliyaniyeのアレクサンドル・スクヴォルツォフが語っていた「ロシアンロック」への違和感、これは非常に共感した。彼は実体験から特にDDTに対して語っていたが、私と同じだった!初めてDDTを聴いてみた時、その暑苦しさに「もしかしてこれはロシアの長渕?!」と思ったが、多分遠からずだろう。ユーリ・シュフチェクは左派になった長渕剛みたいなもんで、メインストリーム男性の支持を集めそうだ。
スクヴォルツォフは「自分はとても反ロシアンロックだった」と言っていたが、私も人生ずっと「反メインストリーム」のアウトサイダーだったので、深く深く共感した。やっぱりロシアでも日本でも世界どこでも、こういう多数派に馴染めないひねくれ者がいるんである。だからこんな変なブログを書いているのである。

ソ連時代のロック」の記事よりも、この記事の方が圧倒的な熱量で書いているが、それはやっぱり私は世渡り上手なバンドよりも、不器用だけれども少数派への音楽を演奏してくれる、そういうバンドの方が好きだからだ。こういうバンドは当時は理解してもらえなくても、年月を経ると真の価値に気付いてもらえる。だから今でも耳に新鮮なのだ。

また、ソ連のこの時代と同じ時系列で、日本のアンダーグラウンドでも全く同じようにイギリスのパンクやポストパンク、ニューウェイブに触発されたバンド達がシーンを形成していた。最初に書いたトランスレコードとか、Obermanekenの所で例えたマダム・エドワルダとかのシーンである。個人的にはリアルタイムでは体験していなくて大人になってから知ったのだが、体制の違うソ連と日本で同じような現象が起きていた事は非常に面白い。この辺についてはここでは書かないが、「Auto-Mod」とか「時の葬列」とか「G-Schmitt」とか「SADIE SADS」とか「80年代のFOOL’S MATE」とかで検索すればいろいろ書いている人がヒットするだろう。

今までいろいろ調べてきて、ロシアと日本の音楽の発展の時系列は重なる事が多いと常々思っていた。「表ソ連ロック」のロック革命は日本の「バンドブーム」と同時代だし、ヒップホップの浸透速度も同じくらいだ。これは非英語圏(ドイツを除く)の国なら結構同じなのかも知れない。これはロシアの事を掘っていて初めて気付いた視点だ。「洋楽=英米の音楽」と思っていた時には分からなかったので、ちょっと賢くなったな、と思った(笑)。