Russian Indie Guide-ロシアのインディーロックガイド

ロシアのインディーロック、その知られざる素晴らしき世界

TaMtAm - 90年代サンクトペテルブルク・オルタナシーンを作ったロシア初の民間クラブ

Chimera(Тотальный джаз: группа «Химера» и потерянное поколение「トータル・ジャズ:キメラ・グループとロスト・ジェネレーション」より

レニングラードと呼ばれていた街は、1991年のソ連崩壊で以前の名前の「サンクトペテルブルク」を取り戻した。ソ連時代からこの街は最先端のトレンドセッターであった。そんな90年代サンクトペテルブルクアンダーグラウンドシーンの中心となったのが、ロシア初の民間経営のクラブ「TaMtAm」だった。「ロシアのCBGB」と呼ばれるTaMtAmによってロシアのオルタナティブロックシーンの基礎が作られ、巣立ったバンドにはロシアを代表するスターになった者もいた。

TaMtAmの歴史

フセヴォロド・ガッケル(「フセヴォロド・ガッケル: 私にとってソ連の崩壊はまったく問題ではなかった」)より

TaMtAm(tam-tam 、 Tamtamとも綴られる)は1991年にAquariumチェリストだったフセヴォロド(セヴァ)・ガッケル(Всеволод "Се́ва" Гаккель)によって設立された、ロシア初の独立した民間の経営による西洋風のロッククラブである。96年まで存続した。

1988年と89年、ガッケルはAquariumのメンバーとして北米に行き、ニューヨークのKnitting FactoryやCBGB、サンフランシスコのロッククラブを訪れ、小さなクラブでも本格的な音楽を聴ける事に大きな衝撃を受けた。またAquariumのボリス・グレベンシコフが海外のメジャーレーベルからアルバムをリリースしていたため(この辺についてはこちらの記事参照)ロンドンに移住したので、ガッケルは彼を訪ねた際にロンドンのクラブにも行った。
こうして海外のクラブで若いバンドがエネルギッシュに演奏しているのを目の当たりにした彼は、ロシアにもこういうクラブが必要だと痛感した。レニングラード・ロッククラブは官営で保守的だったので、完全に独立したDIY精神のクラブを作ろうと思い立った。

1991年の夏(ソ連崩壊はこの年の12月)、サンクトペテルブルク(当時はまだレニングラード)のヴァシリエフスキー島マリー通り49(現在は劇場になっている)の青少年センターを自由に使ってもいいという機会に恵まれ(ソ連崩壊直前なので当局の監督もなかった)、ガッケルはここにクラブ「TaMtAm」を設立し定期的にライブを開催し始めた。これはロシア初の民間による西洋風のロッククラブとなり、数年間はロシアで唯一の民間クラブだった。内装はサンクトペテルブルクのアーティストのアレクセイ・ミヘエフが担当しポップな曼陀羅のような壁画を描いた。青少年センター会長のアレクサンドル・コストリキンはガッケルに電気代とライブ後の清掃だけ要求し、家賃はいらなかった。

TaMtAmに出演するバンドにガッケルが課した条件は「ロシアンロックに影響を受けていない事」だった。ガッケルがロシアンロックそのものだったAquariumのメンバーだった事から考えるとこれは非常に興味深い(89年に正式に脱退)。出演バンドはノーギャラだったが、ビール1ケースが与えられた。当初は無料でライブを見る事が出来たが、音楽よりもただ暴れたいだけの輩を排除するためにカバーチャージが設けられた。

TaMtAmに出演するバンドのジャンルはパンク、ハードコア、スカ、レゲエ、ロカビリー、サイコビリー実験音楽などであった。このような面白い事をやっているクラブはすぐにサンクトペテルブルク中の評判を呼び、いろいろな人々が集まってきた。若いミュージシャンが演奏できる所はここしかなかったためTaMtAmはカルト的な存在となり、90年代サンクトペテルブルクオルタナティブ・ミュージックの中心地となった。
TaMtAmから巣立ってロシアを代表する人気バンドとなった者にはKorol i Shut(Король и Шут)、Pilot(Пилот、当時はMilitary Jane名義)、Tequilajazzz、Leningrad(Ленинград)などがいるが、何よりもTaMtAmの精神を代表しているバンドにはChimera(Химера)がいた。

TaMtAmは前衛的なアーティストからヒッピー、スキンヘッズまでサンクトペテルブルクのあらゆるサブカルチャーの避難所だったため、イデオロギーの対立からケンカが日常茶飯事だった。また麻薬の売人やマフィアなどの怪しい人物も出入りしていた。クラブの上の階は警察の寮だったが、騒音で住民は眠る事も出来ず苦情が殺到した。中庭をバイクで走り回ったりなどひどい有様だったので、自由を尊重していたガッケルもある程度の秩序を保とうと、あまりにも行いの悪いバンドには一定期間の出禁を言い渡した。このようなカオスとパンクは混乱のロシア90年代にぴったりとフィットしていた。TaMtAmは怪しげで危険な場所という悪名をサンクトペテルブルク中に轟かせていたが、かえってそのために地下コミュニティが保たれ、商業主義からは守られていた。
90年代のロシアがどういう状況だったかはこちらの記事を読んでほしい。

TaMtAmスタッフ(「タムタム クラブ アーカイブ: パンクス、スキンヘッド、サンクトペテルブルクの主要なロックンローラーはどのような服装をしていましたか?」より
*この記事は当時の各ジャンルのファッションがたくさん載っているので面白いです!

通常こういったクラブはアルコール販売で儲けを出すが、ガッケルはアルコール販売のライセンスを持っていなかった。TaMtAmの悪名からも取得できる可能性は低かったので、こっそりと販売していたようだ。
ガッケルはAquariumを脱退後テニスコートの管理人の仕事もしていたので、昼間はTaMtAmの出演バンドも連れて行ってバイトをさせ、夜はライブ、という感じだったらしい。ライブ前にはバンドのために食事を作り、みんなで食べた。ライブ後は大きなテーブルを囲んでお茶を飲んだ。外から見るとTaMtAmは悪の巣窟のように思われていたが、穏やかな司祭のようなガッケルを中心とした、平和な共同体だった。スキンズが暴れたりしないように、上階の警察寮に住む警官が警備を買って出てくれたらしい。

しかし度重なる暴力沙汰やドラッグの蔓延により(90年代のロシアは中央アジアからのヘロインが広く出回っていた)、TaMtAmには頻繁に警察の強制調査が入った。問題児のTaMtAmは行政からも厄介視されていた。
当時のサンクトペテルブルクの副市長はプーチンだった。プーチンは市長アナトリー・サプチャークの下で陰の実力者として辣腕をふるったため、「灰色の枢機卿」と呼ばれていた。ガッケルの推測では(↓の映画より)、当時のプーチンは政治家として実績を上げる事に躍起になっていたため、苦情が殺到していたTaMtAmを潰せば自分の手柄になると踏んだ。実際青少年センター会長のサーシャ・コストリキンはプーチンのチームから呼び出されていた。青少年センターの電源は切断され、建物は売却された(ガスプロムが買ったという記述が以前Wikipediaにあったのだが現在はなくなっている。これが事実だとすると、プーチンは今やっている「政権に不都合な動きをする企業はガスプロムに買収させて黙らせる」という方法をこの時からやっていたことになる。)。TaMtAm存続のための抗議運動や数多くの請願があったが、1996年にTaMtAmは閉鎖された。

映画「TAMTAM:困難な時代の音楽」(2017)

5年程しか存在しなかったTaMtAmだが、その影響は絶大なものとなった。TaMtAmが閉鎖された頃には既に他にもロッククラブが出来ていたが、ロシアのDIY系クラブはTaMtAmのやり方を踏襲した。TaMtAmは海外アーティストの招聘もしたが、このようなノウハウはアンダーグラウンドシーンのDIYミュージックビジネスに受け継がれた。

2017年にクラブ創設の物語を描いたイワン・ボルトニコフ監督のドキュメンタリー映画「TAMTAM:困難な時代の音楽」(ТАМТАМ: Музыка смутного времени)が公開された。セヴァ・ガッケルを始め出演していたバンドのメンバーらのインタビューで構成されている。↑上のようにYouTubeでも公開されている。PCだと自動翻訳の日本語字幕が出るが、かなりガタガタの訳なので分かりにくい。スマホアプリだと英語訳しか出ない。とは言え貴重な証言集で、当時の活気とエネルギーが嫌でも伝わってくる。
で、登場人物が誰なのか分からないと思うので、スクショ&Google翻訳で紹介しよう。

セヴァ・ガッケル

アレクサンドル・タンコヴィク(The Пауки[The Pauki])

セルゲイ・エフレメンコ(Markscheider Kunst)

セラフィム・マカンギラ(Markscheider Kunst)

ゲオルギー・ソコロフ(Бычий Цепень)

アレクセイ・ミキーエフ(元TaMtAmスタッフ)

スタス・ボゴラド(The Meantrators)

リョーハ・ニコノフ(Последние танки в Париже[Poslednie Tanki V Parizhe])

キリル・エルミチェフ(Scary B.O.O.M.)

この映画の中でいろいろな人が語っているのがChimera(Химера)のエディク(エデュアルド)・スタルコフだ。彼はTaMtAmを体現するような人物だったが、1997年に自殺してしまう。TaMtAmに出演していたバンド達は「Generation TaMtAm」(タムタム世代)と呼ばれ、後世に大きな影響を与えてきた。これらのバンド個々については後述する。
それにしてもセヴァ・ガッケルはいかにも優しそうな顔をしていて、人格者なんだろうなと思わせる。Posledniye tanki v Parizhe(Последние танки в Париже)のリョーハ・ニコノフは一番現役臭がする。このバンドは彼とエディク・スタルコフが組んだものだったが、エディクの自殺によりリョーハが率いる事になる。

他にもTaMtAmについての動画がYouTubeで見られる。

↑『「文化層」TaMtAmクラブの歴史』
これはテレビ番組で放送されたTaMtAmのドキュメンタリー。この記事にテキストに起こしたものがあるが、記事が2008年のものなのでそれ以前に放送されたのだろう。この動画はPCでは日本語の自動翻訳字幕が出る。出演はセヴァ・ガッケル、エフゲニー・フョードロフ(Tequilajazzz)、ミハイル・ゴルシェネフ(Korol i Shut)、アンドレイ・クニャゼフ(Korol i Shut/KnyaZz)アレクサンダー・コストリキン(青少年センター会長)、イリヤ・チャート(Pilot)、セルゲイ・エフレメンコ(Markscheider Kunst)、クセニア・エルマコヴァ(Jan Coo)、オレグ・ギタルキン(Messer für Frau Müller)、レフ・ルーリー(歴史家)。
ミハイル・ゴルシェネフとアレクサンダー・コストリキンは故人である。

↑この動画は1993年の夏に Ingrid Molnarという人物によって撮影されたもので、まさに当時の息吹を感じる事が出来る。説明らしいものは一切ないのでどれがどのバンドかはよく分からないが、当時のサンクトペテルブルクのパンクシーンがどんな雰囲気だったのかが伝わる貴重な映像だ。TaMtAmはサンクトペテルブルクに住む外国人も熱狂し、海外からやってくる人も多かったらしい。

Generation TaMtAm - TaMtAmを代表するバンド達

Chimera(Химера)

1990年秋、エデュアルド(エディク)・”ラット”・スタルコフ(Эдуардом "Рэтд" Старковым Vo/G/Trumpet)とゲンナジー・バチンスキー(G)によってサンクトペテルブルクで結成されたこのバンドは、当初Deputat Baltiki(Депутат Балтики バルト海代理人)と呼ばれていた。後に「Chimera(キメラ)」と改名されるこのバンドはTaMtAmそのものであり、90年代サンクトペテルブルクアンダーグラウンドシーンから生まれた突然変異体であった。

スタルコフはロシアとフィンランドの国境にあるカレリア地方(古来からロシア・フィンランドスウェーデンによって領有が争われた地域で、フィンランド領からソ連に割譲された)で生まれ育ち、サンクトペテルブルクから130kmの国境の街ヴィボルグで学んだ。カレリアはロシアでも独特の文化を持つ地域で、森と湖と神話(フィンランドの国民的な叙事詩「カレワラ」としてエリアス・リョンロートによって1835年に編纂された)で知られる。スラヴよりもフィンランドの異教的世界観を持つ地域のようだ。スタルコフはこの世界観に強く影響された。なお現在「カレリア」と呼ばれる地域はフィンランドとロシア両国にまたがる。フィンランド人にとっての精神的なふるさとになっているようだ。

徴兵から復員後消防士として働き、バチンスキーらと共にレニングラードに移ってDeputat Baltikiを結成。最初のライブはレニングラード・ロッククラブで行われた。
セヴァ・ガッケルがTaMtAmをオープンするとレギュラーバンドとして出演し、すぐにカルト的な人気を得た。
91年末にバチンスキーがマネージャーになり、バンド名をChimeraに変え音楽性もより実験的で激しいものに変わった。
(バチンスキーはその後ラジオやテレビのホストとして非常に有名になる。「ロシアのハワード・スターン(毒舌で有名なアメリカのカリスマ的なラジオホスト)」と呼ばれていたようだ。2008年に車の事故で死去)

エデュアルド・スタルコフ(「ソング・イントゥ・ザ・ヴォイド」:「キメラ」とラット・スターコフ』より

スタルコフはタトゥーだらけの上半身裸に鍛冶屋のエプロンで裸足、という出で立ちで、ノイジーなギターをかき鳴らしながら手製(?)のトランペットのような金管楽器を吹いていた。またChimeraにはチェロ奏者がいる事も特徴である。
スタルコフのステージパフォーマンスは聴衆の度肝を抜くもので、注射器で自身の静脈から血を抜き、その血でバンドのシンボル(↑上の写真のポーチのようなものに付いているパッチに描かれている人のようなもの)をキャンバスに描いたり、突然クラブの天井のパイプに足でぶら下がり、腹をナイフで切って逆さになりながらギターを流血プレイ、というようなとんでもないものだった。会場を飲み込むギターのノイズとスタルコフの歌う謎めいた歌詞とこうした過激なパフォーマンスはサイケデリックな感覚も起こし、スタルコフは完全にカリスマティックな存在となっていた。TaMtAmという神殿を司るシャーマンがスタルコフだった。

Chimeraは基本的にはサンクトペテルブルクで活動していたが、モスクワやヨーロッパ各都市でも演奏した。93年に1stアルバム「Химера」、97年に2ndアルバム「ZUDWA」(セヴァ・ガッケルによるプロデュース)をリリース。他にライブアルバムも出している。

「ZUDWA」リリース直後の1997年2月23日、エディク・スタルコフはバンドのリハーサルルームの天井裏で突然首吊り自殺した。享年27歳。数日後にガッケルが遺体を発見したが、この間バンドはスタルコフが行方不明のままここで1,2回リハーサルを行っていた。
自殺の理由は今も明らかになっていないが、一つは薬物使用の影響であると思われている。また彼はある種の幻視者であり、「魔法の世界に住んでい」て、「自分を犠牲として捧げた」と彼の周囲の人物は語っている。当時TaMtAmではカルロス・カスタネダ(ペルー生まれのアメリカの文化人類学者で、呪術や神秘主義を研究しスピリチュアリズムニューエイジ運動に多大な影響を与えた)などの神秘主義思想が流行っていたようで、その辺の影響もあったのかも知れない。また彼はヘレナ・ブラヴァツキー(19世紀ウクライナ生まれの近代神智学を提唱した人物で、オカルティズムの起源として知られる)の「ベールをとったイシス」を好きな本として挙げている。超自然的な力を借りて「ZUDWA」という大傑作を作った(と思い込んだ)ので、その対価として自分の命を捧げたのかも知れない。
スタルコフの死去によりChimeraは解散する。

まず、とにかく「ZUDWA」を聴いてみてほしい。

ロシアのロックを現代のものから知ってそのクオリティに驚いた私は、当然歴史をさかのぼってみた。しかし90年代の有名なバンド(この記事で紹介したようなバンド)を聴いてみてもいまいちピンと来なくて、「やっぱり2010年代にならないとダサいのかなぁ」と思っていた。
それがたまたま英語版のWikipediaの「Russian gothic band」のカテゴリでChimeraを見付け、「ZUDWA」を聴いてみたらぶったまげた!90年代のロシアのアンダーグラウンドは同時代のアメリカのインディーと比べても何ら遜色ないじゃん!ってかこんな音を出すバンド聴いたことない!と、本当に驚いたのであった。で、ChimeraのWikiからTaMtAmの存在も知ったのであった。「ZUDWA」はジャケデザインも超かっこいいし!

Chimeraの音楽は大雑把に言えばポストハードコアだと思うが、そこに前衛的なもの、ノイズやジャズやポストパンクやありとあらゆるものをミックスし、彼のルーツのカレリア的な神話世界とオカルティズムなどでくるみ、唯一無二の音楽を作り上げた。
Chimeraは大傑作の「ZUDWA」を出した直後に解散してしまったので、一度も地上に浮上もせずに終わってしまったが、アンダーグラウンドシーンでは伝説となり、カルトバンドとして今も語り継がれている。混乱期のロシアが生んだ、一瞬の奇跡的なバンドだろう。

↑Chimeraのドキュメンタリー。PCなら自動翻訳の日本語字幕が出る。他にも関連動画で残された彼らのライブ動画も出てくると思うので、是非見てみてほしい。
Apple Music spotify

Korol i Shut(Король и Шут)

Korol i Shutはロシアで最も成功したパンクバンドであり、ロシアで最も人気のあるロックバンドの一つでもある。キャリア初期にTaMtAmで演奏していた。TaMtAm出身バンドでは一番の出世株だ。「ロシアのMisfits」のようなバンドであるが、ロシアのフォークロア要素を加えたスタイルが特徴。Voのミハイル・ゴルシェニョフが2013年に死去した事により解散。
彼らについては「ロシアンパンクの歴史」の記事で詳しく書いているのでどうぞ。

↑Korol i Shutを脱退したアンドレイ・クニャゼフが作ったバンドKnyaZzに「Призраки Там-Тама(タムタムの幽霊)」という曲がある。このビデオはTaMtAm時代の映像が使われている。TaMtAmには幽霊が出るという噂があったらしい。

Military Jane(現Pilot)

現Pilot(Пилот)は1997年までMilitary Janeと名乗っていた。改名というより、一度解散して再出発という感じのようだ。Military Janeは1994年結成の、ロシア最初期のグランジバンドの一つである。↑このビデオを見ると、Alice in ChainsのLayne Staleyのような歌い方でサウンドPearl Jamみたいである。当時のロシアのヘヴィー系のバンドは英語で歌うのが多かったようで、彼らもそうである。Military Janeはサンクトペテルブルクでは大成功したが、Pilotになってからはロシア全土で成功を収めた。MJ時代の曲はPilotでロシア語歌詞に変えて再録音されている。
中心メンバーのイリヤ・チャートについては「ウクライナ侵攻に対するロシアのミュージシャンの姿勢それぞれ(1)賛成派」で詳しく書く事になってしまった。Pilotの音はMJよりもマイルドな感じになっている。
Apple Music spotify (←音源はPilot)

Tequilajazzz

Tequilajazzzはソ連時代の人気パンクバンドObyekt Nasmeshek(こちらの記事参照)の解散後、ヴォーカルのリコシェ以外のメンバーによって結成されたバンドである。「ヴォーカル以外全員脱退」のパターンだ。1993年9月4日にTaMtAmで演奏したのがバンドのスタートとされている。彼らは90年代のロシアのオルタナティブロックを代表する存在である。ベース/ヴォーカルのエフゲニー・フェドロフ(Евгений Фёдоров)はキャリアを通じて政権批判派であり、ミュージシャンが政権に対して批判的な公式書簡を出したりする時には必ず参加している。

↑これは1995年リリースのミニアルバム「Абориген」からの曲だが、初期はこのようなエクスペリメンタルなハードコアをやっていた。次第に音楽性も広がり、マスロックやジャズ、ノイズなど様々な要素を吸収していった。1998年のアルバム「Целлулоид
セルロイド)」からのシングル「Зимнее солнце(冬の太陽)」がラジオのチャートで1位となり、一躍彼らの名をロシア全土に知らしめた。
彼らは2010年に一度解散するが、何度かの同窓会的なライブを挟んで2015年に活動再開。現在までロシアのオルタナティブロックの重鎮として活動中。音楽性はちょっと違うが、立ち位置的には「ロシアのTool」みたいな感じなんじゃないかと推測する。
2022年のロシアのウクライナ侵攻に対してエフゲニー・フェドロフが反対表明したため、彼に対して多くの脅迫があった。そのため侵攻開始から一週間後、彼はロシアを出た。現在は海外で活動しているようである。
Apple Music spotify

Jan Coo(Джан Ку)

Jan Cooは1991年結成のバンドで、TequilajazzzやMilitary Jane、後述のKirpichiらと共に90年代ロシアオルタナティブロックを代表する存在である。このバンドは女性シンガーのクセニア・エルマコヴァ(Ксения Ермакова)がフロントを張っているのが特徴である。ソ連からいろいろとロックバンドを掘ってきたが、女性シンガーが前面に出ているバンドはほぼなかった(せいぜいバックコーラス止まり)。ロシアのロックディーヴァは2000年デビューのZemfiraまで待たなければならなかった、みたいな事がWikipediaにも書いてあるが、クセニア・エルマコヴァがいたではないか。しかもZemfiraよりもかなり激しいロックだし。
↑の動画は1996年にDDTの主催で開催されたフェスティバル(「空を優しさで満たそう(Наполним небо добротой)」というタイトル)で、ここで彼らは初めて大観衆の前で演奏した。この頃の彼らの音はやはり時代的にグランジっぽい演奏である。2001年にはNashestvie(Invasion)フェスティバルにも出演。その後音楽性も多様になっていき、エレクトロニクスや民族音楽なども取り入れていった。現在も活動中。なおバンド名はイギリスの精霊から取ったらしい。

Apple Music spotify 

Kirpichi(Кирпичи)

Kirpichi(レンガの意味)は1994年結成のラップコアバンドである。こういうバンドもTaMtAmで演奏していたというのはその多様性が窺われる。彼らは非常に皮肉っぽい歌詞で知られるらしい。彼らも上記のJan Cooが出演したDDTのフェスに出たようだ。大規模フェスに出演し、ラジオのチャートの上位の常連となり、かなり王道の売れ方をしたバンドである。ロシアのラップコアバンドの先駆けである。現在も活動中。
Apple Music spotify

Messer für Frau Müller(Нож Для Frau Müller)

Messer für Frau Müller(ミュラー夫人用のナイフ)はTaMtAmで最初期に演奏したグループの一つで、オレグ・ギタルキン(Олег Гитаркин)とティマ・ゼムリャニキン(Тима Земляникин)による前身のBukvy O(Letter O)を母体として1991年に結成された。彼らの存在がTaMtAmに出演するバンドの基準になった。初期はハードコア、グラインドコア、パンクロック、サイコビリーなどのスタイルだったが、ゼムリャニキンが脱退しオレグ・コストロフ(Олег Костров)が加入したのをきっかけに次第にエレクトロニックやハウスミュージックに接近する。と言っても古いSF映画マレーネ・ディートリッヒのような昔の歌手のサンプルを頻繁に使っているので、どこか懐かしくてキッチュな雰囲気の音である。1999年の出世作「Allo! Superman」はブライアン・イーノが技術的にサポートし、海外でもリリースされた(日本でも出たらしい)。2004年にギタルキンはコストロフをクビにし、Messer für Frau Müllerはギタルキンのソロプロジェクトとなる。2016年に一時的に二人でライブを開催し大成功するが(↓下の動画)、現在このプロジェクトは凍結状態である。彼らの音楽はロシアのテレビCMでもよく使われているらしい。

Apple Music spotify

Messer Chups

オレグ・ギタルキンは98年からMesser für Frau Müllerと並行してMesser Chupsというサーフロック/サイコビリーバンドをやっている(インストゥルメンタル)。当初はギタルキンとドイツ人のアネット・シュナイダーによるデュオだったが、2005年以降はギタルキンとスヴェトラーナ・ゾンビエレラ(Светлана Zombierella 笑)というラインナップとなっている。他にも数多くのセッションミュージシャンと共演している。ソ連時代のポストパンク/ゴシックバンドのDurnoye Vliyaniyeを脱退したアレクサンドル・スクヴォルツォフが一時関わっていたこともある。なお、スクヴォルツォフ脱退後のDurnoye Vliyaniyeはハードコア化し、TaMtAmでも演奏していた。
ギタルキンは古いB級ホラーやSF映画が好きでたまらないのだろう。Messer Chupsではこの要素を最大限に拡大している。「ロシアのThe Cramps」といった趣だ。彼らは海外での活動の方が目立っており、Faith No Moreのマイク・パットンのレーベルIpecac Recordingsからもアルバムを出している。アルバムや曲のタイトルはすべて英語である。ギタルキンは現在はこちらをメインに活動している。一貫したイメージのジャケットデザインは見ていても楽しい。
Apple Music spotify

Markscheider Kunst

Markscheider Kunst(鉱山技師の芸術、というような意味か)は寒いサンクトペテルブルクでレゲエをやっている異色のバンドである。地質学の学生たちによって1992年に結成。当初はロカビリーをやっていたが、次第にレゲエ、アフロ、スカ、ブルースなどの民族的な要素が顕著になった。
このバンドの最大の特徴は、ヴォーカルのセラフィム・セレンゲ・マカンギラ(2003年脱退)が黒人である事だ。彼について調べてもプロフィールのようなものは見付からないが、レゲエなのでジャマイカ出身?どういう訳でロシアに来たのかは分からないが、極寒の地でトロピカルな音楽をやっていたらそりゃ目立つだろう。サンクトペテルブルクにレゲエやアフロビートを広めた功労者である。現在はセラフィムは脱退していてメンバーは全員白人だが、活発にライブ活動をしている。TaMtAmがいかにユニークな場所だったかという事がよく分かる実例だ。
Apple Music spotify

The Meantraitors

The Meantratorsは1989年結成の、ロシア最初のサイコビリーバンドである。TaMtAmではサイコビリーが大人気だったらしく、他にもたくさんいたようだ。The Meantratorsの超高速サイコビリーは文句なしにかっこいい。この超高速サウンドで当時世界的にも知られていたようだ。個人的にサイコビリーにはそれほど興味がなかったが、彼らの音を聴いて「悪くないかも!」と思い直したほどだ。
彼らの歌詞は英語で、タイトルも英語だ。検索したら日本のパンク系レコード店でも結構扱っているようだ。サブスクにはシングルしかないのでBandcampもどうぞ。現在も活動中。
Apple Music spotify

SCARY B.O.O.M.

Scary B.O.O.M.もサイコビリーバンドで、結成年は不明だが↑が1992年の動画だからこの辺りの結成だろう。高速スラップで突っ走るのがかっこいい。サイコビリーの枠にとどまらず、エクスペリメンタルなアプローチもしているようだ。彼らのアルバムも日本のパンク系レコード店で扱っているようなのでこまめに探してみてください。日本のレーベルから出た作品もある。残念ながらSpotifyでは2曲しかなかった。
Apple Music spotify

The Pauki(The Пауки)

The Pauki(The Spiders)は1991年結成のハードコアバンドである。あまり詳しい経歴は分からないがDiscogsには「Beer-punk band from St. Petersburg, Russia」とある。彼らのVKアカウントは頻繁に更新されているので今も精力的にライブ活動をしているようだ。
 Apple Music  spotify

Marradory(Маррадёры)

Marradory(強奪者)は1993年結成のロシアでは最初期のハードコアバンドの一つ。↑の動画はTaMtAmでのライブだ。Last.fmの解説によると「ロシアで最も有名なオールドスクール・ハードコアバンド」らしい。彼らもまだ現役でやっているようである。
Apple Music spotify

Yugendshtil(Югендштиль)

Yugendshtil(ドイツ語 のJugendstil「アールヌーヴォー」の意味)は1990年に結成されたポストパンク/ゴシックロックバンドである。Chimera、Messer für Frau Müllerらと共にTaMtAmを代表するバンドだった。Vo/Bの”ゲルマン”・ニコラエヴィチ・ポドスタニツキー(Герман Николаевич Подстаницкий)を中心に結成された3ピースバンドで、レニングラード・ロッククラブにも加入していた。ポドスタニツキーはドイツ文化とBauhaus(バンドの方)の影響を強く受けていたらしく、それでバンド名もドイツ語だったのだろう。名前の「ゲルマン」も「ドイツかぶれ」的な愛称だったのではないかと思う。他にもこのシーンはMesser für Frau MüllerとかMarkscheider Kunstとかドイツ語のバンド名が多いが、当時はドイツ語だとクール、という雰囲気があったのかも。
91年からライブ活動を開始し、ロシア初の民間のラジオ局Radio BaltikaとRadio SNCでデモ音源が放送された。92年からはTaMtAmや他の都市での演奏も開始し、94年にはドイツツアーも行った。

91年から95年にかけて4作のデモアルバムをカセットで発表したが、96年にセヴァ・ガッケルによって初のフルレングスのアルバム「Никто Никому Ничего(Nobody to Nobody Nothing)」が製作された。このアルバムはКурицца Bros.からCDリリースされ、彼らの唯一の正式なアルバムとなった。
しかしこの作品のレコーディング後にバンド内で経済的な対立が生じ、ドラムのヴィタリー・ソクルスキーが脱退。後任を入れて活動は続けたが、ライブの頻度はどんどん減って、98年1月にバンドは解散した。その後ポドスタニツキーは短期間だったがラトビアのリガ出身の前衛インダストリアル・ノイズグループのZGAで演奏していた。
Yugendshtilは2003年に一度だけMoloko(Молоко 牛乳)クラブで再結成している。メンバーはポドスタニツキーとオリジナル・ギタリストのアンドレイ・グラドヴィッチ、ドラムは元Durnoye Vliyaniyeのイーゴリ・モシンだった。

*MolokoはTaMtAm閉鎖直後の1996年11月にオープンしたロッククラブで、TaMtAmのようなDIY精神を持ちサンクトペテルブルクアンダーグラウンドシーンを支えてきた。セヴァ・ガッケルの推薦により最初の出演バンドはMarkscheider Kunst、次がChimeraと、TaMtAm常連バンドが多かったようだ。海外バンドのライブも頻繁に行われたが、サンクトペテルブルク市当局とのトラブルにより2005年10月のライブを最後に閉鎖された。

ポドスタニツキーは2017年3月23日にアパートの火災により50歳で死去。タバコの火の不始末が原因だったようだ。彼は晩年アルコールによる深刻な病気を患っていたらしい。

Yugendshtilはアルバム1枚を残したのみで、解散後は不遇だったようだが、アルバム「Никто Никому Ничего」は本当に素晴らしいので再評価されるべきバンドだと思う。彼らの音源はサブスクにはコンピ参加曲しかないが、2019年に「Никто Никому Ничего」がBandcampで再発されている。しかしこのレーベルからは現在制裁でPaypalが使えないので買う事が出来ない。今の所webで聴くしか方法がない。またYouTubeでもフルアルバムを聴くことができる。
彼らの音はロシアのポストパンクとしては比較的珍しくディストーションのかかったギターで、当時のハードコアの影響も多少なりとも受けているのではないかと思う。神経質で鋭利なギターリフとタイトなリズムでもたついた所が一切なく、ソ連時代のポストパンクとは明らかに違う。とにかくかっこいいのでこのまま埋もれているのは本当にもったいない。YouTubeには他にデモアルバムの「Hände hoch!」 (1993)と「Югендштиль」(1994)もフルであったので是非どうぞ。

Poslednie Tanki V Parizhe(Последние танки в Париже)

Poslednie Tanki V Parizhe(”Last Tanks in Paris”の意味。「ПТВП(PTVP)」と略される)は1996年にエデュアルド・スタルコフ(Chimera)とアレクセイ(リョーハ)・ニコノフ(Алексе́й ”Лёха” Ни́конов Vo)によってヴィボルグで結成されたパンク/ポストパンクバンドである。バンド名は元々ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画から取った「ラスト・タンゴ・イン・パリ」だったが、後に変更された。ニコノフはスタルコフの5歳年下で、同郷のよしみでTaMtAmに連れて行ってくれたらしい。
バンドの最初のライブはTaMtAmで行われたが、97年にスタルコフ(このバンドではドラム担当)が自殺、ギタリストのニコライ・ベニハエフがドラッグによるオーバードーズで死去。1stアルバムのレコーディングではニコノフがギターを弾いていた。いきなりメンバーが二人も死去という波乱のスタートだったが、2000年代前半に活動拠点をサンクトペテルブルクに移し、バンドはアンダーグラウンドで着実に支持を得ていった。2004年リリースのアルバム「2084」は翌年のFUZZマガジンのベストアルバム賞を受賞した。


PTVPは非常に反権威主義的な姿勢で知られており、歌詞ではプーチンを繰り返し批判している。80年代の反共産主義的なバンドがソ連崩壊後はメインストリームに移行して牙を抜かれていった中で、PTVPは90年代では政治的な姿勢を打ち出していた稀なバンドであった。2000年代以降もその姿勢は変わらず、彼らはロシアのロックシーンにおいて率直な政治的見解を示すバンドとして広く知られている。
リョーハ・ニコノフは詩人として非常に有名で、何度も受賞している。ロシアのアンダーグラウンド・カルチャーで最も影響力のある人物の一人らしい。カリスマパンク詩人、といった感じか。彼はPlohoやPornofilmyのような若いバンドやラッパーとも数多く共演している。ロシアのアンダーグラウンドシーンにおける「パンク兄貴」みたいな感じなのかも。彼の発言を読んでみると、かなり柔軟な考え方をしていて新しいものを積極的に取り入れる人のようだ。スタルコフへの憧れが感じられる発言も多い。PTVPは現在も活動中。
Apple Music spotify



TaMtAmに出ていたバンドにはコアなイメージがあるが、90年代のメインストリームシーンで大成功したSpleanLeningradなども出演していた(Leningradは正式結成が97年なので組み立ての頃だと思われる)。またソ連時代からのバンドAvtomaticheskiye Udovletvoriteli(ロシア最初期のパンクバンド)やAuktyon(前衛バンド)も出ていた。
その他の人気出演バンドはSpitfire(スカ)、Skazy Lesa(Сказы Леса、Chimeraのエディク・スタルコフも参加していたハードコア)、Vibrator(Вибратор ハードコア)、Kenguru(Кенгуру フォークレゲエ)、Revolver(Револьвер ビートルズ風)などがいた。

最後に

TaMtAmは96年に閉鎖されてしまったが、このようなクラブが存在できたのはソ連崩壊直前からの数年間という混乱期だったからだろう。
儲け度外視で運営できたのは、家賃がいらなかったからだ。そもそもTaMtAmは青少年センターという公的な施設を「不法占拠」的に使っていた訳で、セヴァ・ガッケルとアレクサンドル・コストリキンの紳士協定という不安定な基盤で営業していた。言ってみれば公民館を勝手にライブハウスにして、そこが騒音やケンカ、ドラッグトラブルだらけだったら、そりゃ当然市民は文句を言うだろう。ソ連崩壊から時間が経過し資本主義が浸透していくに連れて、土地や建物の効率的な利用にも目が行く。TaMtAmの閉鎖はある意味当然の成り行きだった。
しかし混乱期に金銭的な心配をせず自由に運営できた事によって、様々なトライ&エラーを経験しノウハウを蓄積できた。これを後続のクラブが引き継ぐ事が出来たのは大きな実績だ。

Chimeraのエディク・スタルコフはTaMtAmに住んでいたらしいし、出演バンドはみなファミリーだった。彼はステージでは過激なパフォーマンスをしたが普段は非常に温厚で親切な青年だったらしい。ガッケル自身も若いバンドの活躍に影響されて、一時やめていた音楽活動を再開してWineというバンドで演奏していた。
バンドに食べさせる賄いの食事はベジタリアンメニューだったそうだし、確実にソ連時代とは違う新しいライフスタイルが始まっていたのだろう。
また、この時代はロシアにストレートエッジ的な思想が広まり始めていた。その代表的なものが「Учитесь плавать(Learn to Swim)運動」である。

Learn to Swim

90年代のロシアの若者による運動で、薬物と社会的順応に反対し、健康的なライフスタイルを提唱していた。この運動は「過激」なバンド達に広がっていき、フェスティバルも開催された。
「Learn to Swim」の主な原則は、「健康的なライフスタイル」、「音楽にのみ全力を尽くす」、「社会的順応に対する不屈の精神」だった。
運動の始まりはラジオ番組「Learn to Swim」で、1991年にMAXIMUM Radio(1991年開局のオルタナティブロック専門ラジオ局)で放送開始された。ホストはVa-Bankのアレクサンドル・F・スクリヤールであった。この番組は世界各国のオルタナティブロックをかけたが、ロシアや旧ソ連諸国のバンドから送られたデモテープも放送した。

ラジオ番組の人気が高まったため、フェスティバルを開催する事になった。このアイデアは1994年にヘンリー・ロリンズのRollins Bandがロシア公演を行ったのをきっかけに始まり、ロリンズのストレートエッジ思想がイデオロギーとなった。95年の第一回から2001年まで5回開催され、Va-Bankが主催した。海外からRage Against the MachineやDub Warなどが参加し、国内からはTequilajazzz、Chimera、NAIV、Tarakany!、IFKなどが参加。Feelee Records(ロシア最古のインディーレーベル)からコンピレーションアルバムも発売された。

『フェスティバル「Learn to Swim」: ロシアのオルタナティブ ロックの第一波』(ロシア語)

アレクサンドル・F・スクリヤールは現在ではプーチン政権の熱心な支持者で、ウクライナ侵攻も支持している。ウクライナラトビアエストニア、カナダの制裁リストにも入っている。Pilotのイリヤ・チャートもそうだが、平和的な活動をしていた人がどうしてそうなってしまうのかが本当に分からない。セヴァ・ガッケルが愛国主義者になっていないのがせめてもの救いだ。とは言えガッケルは元々政治的な人ではなかったので、何らかの運動をしていた人は、何かの拍子に運動の方向性が変な方向に行ってしまうのかも。